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自己同一化の練習(付録から参照)2


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さらに深く考える事は価値あることです。

それなら私は何なのか。私自身を、私の肉体、感覚、感情、欲望、知性、行動から脱同一化した後残るのは何なのか。
それは私の本質ー純粋な自己意識の中心である。
それは、私の個人としての生において絶えず変化する流れの中で、永久不変の要素である。それは、私に存在、永遠、内的バランスの感じを与えてくれるものである。私は自分のアイデンティティーがこの中心にあることを確信し、その永遠性、そのエネルギーを確認する。
(沈黙)
私は自分自身を純粋な自己に気がつき、および創造的、力動的エネルギーの中心と認め、確信する。
この真のアイデンティティーの中心から、私があらゆる心理的過程や身体を観察し、方向づけ、調和を保つことを学ぶことができるのだと言うことに私は気がつく。私はこの事実に私の日常生活の中で絶えず気づき、そして私の人生にますます意味と方向付けを与えるためにその「気づき」を利用することを意味する。

ーー意志によりどんな瞬間にもー押しつぶされるほどの感情、苛立つ考え、不当な役割その他から自分を脱同一化し、中立的観察者の立場から、その状況、意味、原因そしてその最善の処理方法などをより明確に把握することができるのです。
できれば毎日起きて数時間以内に行えば大変効果があることがわかっています。この演習は各人の目的や実存的要求によって修整され、3つの基本的機能(肉体的、感情的、知的)や、サブパーソナリティーや役割その他に加えて、他の機能からの脱同一化の段階などを加えたりできるわけです。次にその例を挙げます。

私は欲望を持つ。しかし私は欲望ではない。欲望は私の衝動(肉体的、感情的)やその他の影響により引き起こされる。欲望は惹きつけられるものや、逆に道を感じるものが変わるとともにしばしば変化し、矛盾しあう。
故に欲望は私自身ではない。私は欲望を持っている、しかし私は欲望とは異なるものである。(この段階は、感情と知性の段階の間に入れるのが最もよい)
私は人生において種々の活動と関わり、多くの役割を演ずる。私はその役割を演じなければならないし、それが息子役であろうが、父親役であろうが、妻役、夫役であろうが、先生あるいは学生役、芸術家、管理職だろうが、その役割に励んで、できるだけうまく演じなければならない。しかし、私は息子、父親、芸術家である以上のものである。
これは役割であり、私が自分から、信じており、演じることに同意しており、また自分自身が演じているのを見守り観察することができるような特定ではあるが部分的な役割ではある。それ故私はそれらの役割のどれでもない。
私は自己同一性を持つものであり、単なる役者ではなく、それらの演出者なのである。


ふと感じるものを中心に書いています。よろしくお願い致します。