三島由紀夫戯曲、 倉迫康史演出 Theatre Ort 『薔薇と海賊』

画像1 マジ面白恐ろし三島テキスト毒スゲー。 まずは『薔薇と海賊』三島由紀夫戯曲の感想から 役者さんの感想はこりから(笑)。
画像2 三島由紀夫戯曲、 倉迫康史演出 Theatre Ort 『薔薇と海賊』 2019年8月29日(木)~31日(土)
画像3 感想書こうと反芻してたら三島毒にまみれて溺れて我が身中の虫に隠し持っていた毒が引きずり出されて三島毒と共振し始める。なんと毒に身を任せることの甘美なことか。 取り敢えず全部出ししますが、毒当たりご用心。
画像4 画像は、2019年倉迫作演出・野外劇『2100年のファーレ』右側の男性が倉迫康史氏で『薔薇と海賊』の演出もされた。左側が『薔薇と海賊』で「定代」を演じた林周一。(途中で「定代」と「勘次」を一人で機関銃のように演じる凄まじい箇所があった。
画像5 林周一扮するバイク妖怪?の元になった作品。 篠原有司男「ケンタウルス・モーターサイクル」
画像6 三島由紀夫の家庭人男性もしくは凡庸で特別な才能も無い、無能なのに支配欲はある普通の人への超嫌悪がスゲー!の印象だった(笑)。 え?純愛?へ?ラスト?は?結ばれる二人?あれは特別な才能、特別な人種だけが入国を許されるイニシエーションやろ? 高等遊民を気取っていたアリコの夫、重政が本物の高等遊民、特別な人種である帝一のもとに向かうのを阻止しようと提案するのが「無職から勤め人になる」、「立派な家庭人になる」、「夫が稼ぎ、妻は家政を守る、」という提案。
画像7 このくだりは、去っていくアリコにすがり付く代わりに、特別な才能を持つアリコから文筆業を取り上げ、己れが世帯主になり支配欲を充足しようとする詭弁。正論と誠実に見える言葉を尽くし、アリコの貞淑(世間一般の常識)に訴えかけるところは地獄のギャグだった。 もう1人のエセ高等遊民、重巳の己れの手は使わず兄、重政を配下に置くキャラクターはラスト近く帝一に「海賊より劣る海蛇」と看破される。
画像8 亭一を短剣で脅し支配していた全くなんの才も、財も、徳も美も持ち得ていない額間に「人を支配する快感が忘れられない」と言わせ観客を仰け反らせる。 三島はこれを喜劇仕立ての戯曲にした。(随所に笑える台詞がある) これら登場人物は特別な才能は無いのに支配を行使していた者たちだ。失笑するが、滑稽で哀れで怖い。 そしてそれらの言葉の向こうに三島の鋭い目が居る。復讐譚か。毒のナイフで刺す。刺す。刺す。ザックザクと刺す。
画像9 高等遊民気取りの兄弟、この2人は実の兄弟でアリコの稼ぎで気ままに優雅に、時に女を連れ込んで暮らしている。 三島の丁寧さは、連れ込んだ女に女学生だった頃のアリコを強姦して今に至る。という、重政が唯一語れる英雄譚を、「アタシ重政さんに聞いて知っていてよ」と云わせるところだ。男女の寝屋の語り草にされていることを披露させるシーン。女としての優位な位置に立っている。と、得意に語らせるシーンを用意していて、本当によく思いつくな三島、男なのに!と震えた。
画像10 特別な才能ある三島本人をトップに、特別な才能ある女、高等な男、下等な男、下等な老人、下等な老人のさらに2段階くらい下に位置する下等な女。 ほんっっっとに三島の丁寧さ鋭さ底意地の悪さに脳が痺れる。素晴らしい。 強姦(男根)で女を我のものにしたと信じ、我のものになったと疑わずにいた重政の前に、性欲の(男根を使え)無い帝一が現れ、「我のもの(アリコ)」を「(寝)取ら」れる。 男根(←これさえ振りかざせば女はいちころ。能力・力の記号的シンボル)至上主義者への二重三重の屈辱と楽園からの放逐。
画像11 林周一さんが投稿した三島由紀夫の原作誕生エピソード >三島がニューヨークでバレエ「眠れる森の美女」にインスパイアされ究極の純粋な愛を、甘い甘い究極の甘いラブシーンを描きたいと書かれたこの作品。  を、反芻してたら、更にまた「げっ」と思うことにぶち当たる。
画像12 三島由紀夫がNYで観賞したバレエ『眠りの森の美女』からインスパイアされた作品と知るが、『眠りの森の美女』の、機織り機の針、あれは無垢な姫君を言葉巧みに誘い刺し貫いた男性器との読み方もあり、三島が観た『眠りの森』が、どのようなものかはわからないが(普通に機織り機の表現だっただろうと思うが)、三島の目には男根に変換されていったのだろうと思うと、、、、。毒持つ天才の頭の中は、、、。
画像13 『薔薇と海賊』 純愛を描こうと執筆していて物語を作り始め、主人公以外の登場人物を練り始めた段階で、具体的な、実際に三島の近辺に居た人物があてられていたのでは無いかと思えてならない。 三島の頭の中に嫌悪唾棄すべき具体的な人物(複数)がいて、その他の嫌悪する人々のそれぞれのエッセンスを加えていったのでは?と思えてならない、、、。
画像14 超秀才でエリートな三島、自分を含めごく少数の芸術家、文化知的人しか認めてなく、それ以外の自分に近寄っている人々には、心の中で「貴様など俺様に近寄れる人種では無いのだ!」と苦々しく思っていたのではと。 純愛を描く物語の中で、どこらあたりから、それとも初めから?『薔薇と海賊』は復讐譚になっていったのか?
画像15 とはいえ、三島、本当に頭が冴えざえと良く、糞底意地が心底悪い(笑)。 そんな毒フレーバーにまみれた三島テキスト。 演出家はそのテキストのどこに刺さったか、 倉迫氏が家庭を持った身で読み直してみると、「生活」というワードをこの作品に見る。と、いうようなことをどこかで読んだが。演出家自身の意識では「純愛」や「生活」に目が向いたのかもしれないが、もしかして気が付かないところで「復讐」に共振したのかとも疑いたくなる。
画像16 が、 倉迫康史さんの作・演出『2100年のファーレ』、10数分?の短い児童向けの野外劇を観た時に感じた、台詞の中の言葉に何層もの共通イメージを仕込んでおけば、たとえ10数分の短さであろうと、十分に充足するものなのだ。な芝居を創る演出家だ、外向けの言葉に「純愛」「生活」だけアナウンスして、実は、な、非常に確信犯的なもののように思える。
画像17 それは何故なら、楽園から放逐される男(重政、重巳、額間)たちのキャスティング(ビジュアルだったり、芝居のカラーだったり)が遠慮会釈なくズバコンにはまっているからだ。 演出。どこに光をあてて具現化するかで全く違う世界を私たちの目の前にあらわしてもらえる。 三島由紀夫の豪華絢爛な言葉と世界に目眩まされるか、それともその奥の、目の眩む反吐の出そうな漆黒を見るか。
画像18 倉迫演出は、、、もし、演出家自身も気がつかない己の奥の目の眩むような反吐の世界に手を突っ込んだというならば、、、いや、やはり「生活」というのは隠れ蓑だ。 なにはともあれその目の眩む漆黒から反吐を掴み取り、観客に気がつかれないよう、そっと手渡して帰らせましたね。 痺れています。

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