内外海田烏 海のステージ2019 演劇集団・風煉ダンス「魚人奇譚」

画像1 2019年5月24、25日 内外海田烏 海のステージ2019 演劇集団・風煉ダンス「魚人奇譚」 何から書けばいいのか想いが千々に散らばる。
画像2 やはり風煉ダンス座長で演出家の笠原真志と、風煉ダンス関係の人たちとで、一台の車に同乗しての「魚人奇譚」観劇小浜ツアー田烏入りだったことも、この千々の想いに関わっているので分けて考えられない。(車中の風煉密度の高濃度さといったら、、、。つか、私が異物か・(^^;) 千々の中のひとつひとつを徒然に。
画像3 安東へし子演じた みぞぐちあすみ が素晴らしかった。魚のアタマのかぶり物。それは顔面のみならず後頭部から左右後ろ首全部を覆う形状で、多分ぐらつき防止でそうしたのだと思うのだけれど、左右後ろの人間の生の首が見えないことで格段に魚度が上がって見える。ような気がする。その魚アタマのかぶり物をかぶって演じる安東へし子が、まるでこの世の出来事ではなく、本当に奇譚・お伽話の登場人物そのものになっていて人形のように可愛らしい。
画像4 着物ワンピースな衣装(洋服の袖ではなく、着物のたもと。←分量が大きい。スカートは薄い布地を超たっぷり使ったフレア)と魚アタマとのバランス(3.5頭身)。着物の袖から見える上腕と前腕。その長さ(短さ)と、腕の丸味を帯びた厚み。手の甲から指先のそり具合。それら含めた腕全体のサイズ感。歩幅の小さい歩き方、全身で感情を表現する仕草。少し笑顔混じりの線の細い声。かぶり物を取った時の可愛らしさ。
画像5 みぞぐちあすみ という形状の「へし子」は演劇・お芝居という「人間世界のつくりものの世界」から、この奇譚・お伽話へ入っていく為の素晴らしいスイッチャーだったと、反芻しながら思う。へし子が人間の寿命を終えて海と人間を繋ぐものとなり海に還るという段。へし子のモノローグは抽象的に海の惨状を物語る。ここで対象的に思い出すのは、やはり終焉間近に物凄く長いモノローグを語った風煉ダンス「ゲシュタル島崩壊記」だ。
画像6 「ゲシュタル島崩壊記」では種明かしのように説明的な内容が語られた。「魚人奇譚」では赤土、にびいろに濁った海、死んでいく海、と、注意深く聞けば辺野古を感じるにとどめられた語りだった。聞きながら、ここで沖縄の海を言われたとしたら、、、この田烏の地元の方々の気持ちは「はあ?」と一気に醒め、離れるやもしれない。
画像7 二日間の観劇後、出発集合に集まったニワコヤに到着して、読後感想会ならぬプチ観賞感想会な会話の中でそう申したら笠原さんが「林は地元に則した物語でいく事にした」「ジュゴンは人魚だからね。繋がってるんだよ、林の中で」「それでカンの良いヨタロウさんが前半に沖縄の音階で演奏したんだ」と教えてくれた!それで!いきなり沖縄の音楽のような曲を演奏されたから「え?」って不思議に思ったけど芝居が進むからそのまま記憶の隅に流してた。それでかー!
画像8 ニワコヤでのプチ観賞感想会な会話の中での気づきは更に恐るべきものを浮かび上がらせた。 繰り返し交わされる丁寧なギャグシーン(ボケてきた老人が食べた食事を忘れて家族に「私はまだ食べていない」と訴え、家族が「もう食べたじゃない」な日常的なやり取り)に見えた伊藤ヨタロウ演じる白塗りの老女・安東玉三郎と、御所園幸枝演じる浅間光代の掛け合い。老女・安東玉三郎「まだ食べて無いよ?」と、浅間光代の「そうね食べて無いわね」
画像9 これが観賞後感想会の中、Fumiyoさんの「ヨタロウさんは老女というより妖女だったね」という発言から、妖女?妖、、、あー!!ヨタロウさんが八百比丘尼かもー!!!だからヤミ金の借金百両に「へそくりも長く生きていると貯まるのさ」の「長く」は人間の寿命80、90じゃなく800年?
画像10 それで芝居後半の、へし子が海に還るというクライマックスのシーンで始まるヨタロウ演じる安東玉三郎と浅間光代との掛け合いは、安東玉三郎の「もう食べたよ」で始まり、浅間光代の「食べてない」「食べて無いわよ!」「食べたなんて言わないで!」になるんだー!と、咆哮した。鳥肌。
画像11 みぞぐちあすみ 演じる愛を抱いて優しくてノスタルジックなへし子(魚人・人魚)の世界が、まるで四谷怪談の反転する戸板のようにガラガラガラっと変転する。不老不死の人魚の肉を食べた少女は数百年もの間に白塗りの老女となり更にまだ何百年も旅から旅へ流れるのだ。恐ろしい。猛烈に恐ろしい。 この「魚人奇譚」は「まつろわぬ民」のように深化して、続編と称して新たな物語が私たちの目の前に現れるような気がしてならない。

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