【メモ】史書から文永の役を調べる

 調べかけなのだがこれ以上の文献探すのが大変なのでメモ扱い。

文永の役

 弘安の役に比べると文永の役に関する記録は碌なものが無い。すぐ撤退したのも大きそう。元代は漢人が官僚になりにくい時代なので野史が沢山あったはず。取りあえず、元史の本紀至元11年(1274年)の記録を見てみよう。

元史世祖本紀

三月己卯,詔以勸課農桑諭高麗國王王禃,仍命安撫高麗軍民總管洪茶丘提點農事。己丑,呂文煥隨司千戶陳炎謀叛,誅首惡二人,其隨司軍併其妻子,皆令內徙。庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等,將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,戰船大小合九百艘,征日本。

(略)

秋七月(略)癸巳,高麗國王王禃薨,遣使以遺表來上,且言世子愖孝謹,可付後事。敕同知上都留守司事張煥冊愖為高麗國王。

十一月(略)召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三沒合等赴闕。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7008

 日本に三月に出兵したと書かれている。その内容は、女真軍と屯田軍に合わせて水軍とある。これが蒙漢軍の正体である。モンゴル人などほとんど居ないのである。漢人と高麗人と女真人が主力なのだろう。その次の十一月は退却した後であり、内容が書かれていない。どうやらフビライは南宋攻略戦の分遣隊の一つぐらいと考えて居た可能性がある。乗り気だったのは高麗王だろう。そういうわけで副将の劉復亨伝を当たる必要があるのだが(忻都や忽敦は伝すら無い)、その前に高麗史を見てみる。

高麗史世家第二十八

冬十月乙巳,都督使金方慶將中軍,朴之亮、金忻知兵馬事,任愷爲副使,金侁爲左軍使,韋得儒知兵馬事,孫世貞爲副使,金文庇爲右軍使,羅裕、朴保知兵馬事,潘阜爲副使,號三翼軍。與元都元帥忽敦,右副元帥洪茶丘,左副元帥劉復亨,以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工、引海、水手六千七百、戰艦九百餘艘,征日本。至一岐島,擊殺千餘級,分道以進,倭却走,伏屍如麻。及暮乃解,會夜大風雨,戰艦觸巖崖,多敗,金侁溺死。

(略)

十一月(略) 己亥,東征師還合浦。遣同知樞密院事張鎰勞之,軍不還者,無慮萬三千五百餘人。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB

 高麗史の記録を見ると壱岐までは書いてあるが、その後、暴風雨に遭って引き返してきたとある。史実と大分異なる気がする。実際には博多まで来ているはずだが、高麗人は、まるで壱岐より先、どこに行ったかすら知らなかったと思われる記述である。ちなみに蒙漢軍は元史の1万5000で、高麗史では2万5000になっている。差にあたる1万はもしかすると劉復亨の率いた兵なのかも知れない。元史っていい加減だし。

 兵3万3000、漕ぎ手他6,700で1万3500人が未帰還とすると3割以上を消耗した事になる。ちなみに消耗率3割は全滅判定される数字であり、大敗と言えるだろう。

元史劉復亨伝

十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之。還,招降淮南諸郡邑。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7152#%E5%8A%89%E9%80%9A

 至元10年(1273年)になっており実に年号まで間違っている。しかも全滅したのに之を破るとはこれいかに……。松浦党には勝ったが、上陸に失敗したと言うところだろうか?その後、征東左副都元帥から淮南諸郡邑に降格していると言うことは失敗の責任を負わされたことを示唆している。税収が多い場所に転勤して、アホな戦争には二度と関わりたくなかったのが現実かも知れない。徴税は請負人制度なので富んだ地に差配して貰えば、わざわざ掠奪 に精を出す必要は無い。

元史洪俊奇(茶丘)伝

十一年,又命監造戰船,經營日本國事。三月,授昭勇大將軍、安撫使,高麗軍民總管如故。己卯,命茶丘提點高麗農事。八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7154#%E6%B4%AA%E7%A6%8F%E6%BA%90%E3%80%88%E4%BF%8A%E5%A5%87_%E5%90%9B%E7%A5%A5_%E8%90%AC%E3%80%89

  洪茶丘の伝も禄な記録がない。宜蠻(イマン)が何処を指しているのかよく分からない。音的に一番近いのは伊万里かな。

高麗史金方慶伝

 そういうわけで高麗史の金方慶伝をみることにする。一番詳しくに書いてあるのがここなのだが……。

十五年,帝欲征日本,詔方慶與茶丘,監造戰艦。造船若依蠻樣,則工費多,將不及期,一國憂之。方慶爲東南道都督使,先到全羅,遣人咨受省檄,用本國船樣督造。是年,元宗薨,忠烈卽位,方慶與茶丘,單騎來陳慰。還到合浦,與都元帥忽敦及副元帥茶丘、劉復亨,閱戰艦。方慶將中軍,朴之亮、金忻、知兵馬事任愷爲副使。樞密院副使金侁爲左軍使,韋得儒、知兵馬事孫世貞爲副使。上將軍金文庇爲右軍使,羅祐、朴保、知兵馬事潘阜爲副使,號三翼軍。忻卽綬也。以蒙、漢軍二萬五千,我軍八千,梢工、引海、水手六千七百,戰艦九百餘艘,留合浦以待女眞軍。
女眞後期,乃發船入對馬島,擊殺甚衆。至一歧島,倭兵陳於岸上,之亮及方慶壻趙抃逐之,倭請降復來戰。茶丘與之亮、抃,擊殺千餘級,捨舟三郞浦,分道而進,所殺過當。倭兵突至衝中軍,長劒交左右,方慶如植,不少却。拔一嗃矢,厲聲大喝,倭辟易而走。之亮、忻、抃、李唐公、金天祿、申奕等力戰,倭兵大敗,伏屍如麻。忽敦曰:「蒙人雖習戰,何以加此?」諸軍與戰,及暮乃解。方慶謂忽敦、茶丘曰:「兵法,千里縣軍,其鋒不可當。我師雖少,已入敵境,人自爲戰,卽孟明焚船,淮陰背水也,請復戰。」忽敦曰:「兵法,小敵之堅,大敵之擒。策疲乏之兵,敵日滋之衆,非完計也,不若回軍。」復亨中流矢,先登舟,遂引兵還。會,夜大風雨,戰艦觸岩崖多敗,侁墮水死。到合浦,以俘獲、器仗,獻帝及王。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7%E4%B8%80%E7%99%BE%E5%9B%9B#%E9%87%91%E6%96%B9%E6%85%B6%E4%B9%9D%E5%AE%B9%E3%80%81%E9%BD%8A%E9%A1%94%E3%80%81%E5%BF%BB%E3%80%81%E6%81%82%E3%80%81%E6%B0%B8%E6%97%BD%E3%80%81%E6%B0%B8%E7%85%A6%E3%80%81%E5%A3%AB%E8%A1%A1%E3%80%81%E6%9C%B4%E7%90%83

 出航まで女真兵を待っていたと書いてある。つまり蒙漢軍の中身は女真軍……。松浦党には勝ったが上陸に失敗して船に戻ると撤退の相談を初め、結論が出ないうちに劉復亨が流れ矢に当たって船に戻り、さらに暴風雨に追い打ちされて撤退したと。

 モンゴル人は出兵に乗り気ではなく、高麗人だけがやる気満々な感じ……。そもそも蒙漢軍の中身は女真人と契丹人だとすれば高麗人に付き合わされる方は逃げたいだろうね。兵と武器は遼寧と高麗から挑発している。糧食に関しては高麗が飢饉なので外から持ちこんだみたいな記述があった。

出兵の経緯

元史世祖本紀

 金州と言うのは現代だと大連にあるのだが、当時もそのあたりの土地だったらしい。そのため金州戍兵(恐らく元と女真・高麗の間に配置された守備兵)には恐らく女真人と契丹人が多く居た可能性が高い。どうも元史では女真人を日本征服に使おうとした様である。そして高麗を占領した直後に動いている様である。

 「劉整請教練水軍五六萬及於興元金、洋州、汴梁等處造船二千艘,從之。」とある様に南宋を攻める水軍なら十分用意出来ているのだが、水軍が欲しいので元寇を起こしたなどと言うトンチキな説をどこぞの教授が出していた様な……。漢文すら読めないのに中世の日本史の専門家を名乗る資格は無いと思うの。貴族の正文は、まだ漢文だから漢文も重要。

(至元)九年(略)
二月庚寅朔,奉使日本趙良弼,遣書狀官張鐸同日本二十六人,至京師求見。辛卯,詔:「札魯忽赤乃太祖開創之始所置,位百司右,其賜銀印。立左右司。」壬辰,高麗國王王禃遣其臣齊安侯王淑來賀改國號。改中都為大都。甲午,命阿朮典蒙古軍,劉整、阿里海牙典漢軍。戊戌,以去歲東平及西京等州縣旱蝗水潦,免其租賦。庚子,復唐州(祕)〔泌〕陽縣。[10]建中書省署於大都。戊申,始祭先農如祭社之儀。詔諸路開浚水利。車駕幸上都。
三月乙丑,諭旨中書省,日本使人速議遣還。安童言:「良弼請移金州戍兵,勿使日本妄生疑懼。臣等以為金州戍兵,彼國所知,若復移戍,恐非所宜。但開諭來使,此戍乃為躭羅暫設,爾等不須疑畏也。」帝稱善。(略)

十一月乙卯朔,詔以至元十年曆賜高麗。壬戌,發北京民夫六千,伐木乾山,蠲其家徭賦。諸王只必帖木兒築新城成,賜名永昌府。丙寅,蠲昔剌斡脫所負官錢。丁卯,太陰犯畢。城光州。遣無籍軍掠宋境。己巳,敕發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千,仍益武衞軍二千,征躭羅。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7007

十年春正月乙卯朔,高麗國王王禃遣其世子愖來朝。戊午,敕自今並以國字書宣命。命忻都、鄭溫、洪茶丘征躭羅。
(略)
三月(略)劉整請教練水軍五六萬及於興元金、洋州、汴梁等處造船二千艘,從之。
(略)
六月乙酉,賑諸王塔察兒部民饑。丁亥,以各路弓矢甲匠並隸軍器監。免大都、南京兩路賦役,以紓民力。賑甘州等處諸驛。辛卯,汰陝西貧難軍。以劉整、阿里海牙不相能,分軍為二,各統之。癸巳,敕襄陽造戰船千艘。甲午,改資用庫為利用監。丁酉,置光州等處招討司。戊申,經略忻都等兵至躭羅,撫定其地,詔以失里伯為躭羅國招討使,尹邦寶副之。陞拱衞直為都指揮司。使日本趙良弼,至太宰府而還,具以日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜來上。
(略)
秋七月(略)。戊申,高麗國王王禃遣其順安公王悰、同知樞密院事宋宗禮,[1]賀皇后、皇太子受冊禮成。
八月庚戌朔,前所釋諸路罪囚,自至大都者凡二十二人,並赦之。甲寅,鳳翔寶鷄縣劉鐵妻一產三男,[2]復其家三年。丁丑,聖誕節,高麗王王禃遣其上將軍金詵來賀。己卯,賜襄陽生熟券軍冬衣有差。
九月辛巳,遼東饑,弛獵禁。以合伯為平章政事。壬午,立河南宣慰司,供給荊湖、淮西軍需。甲申,襄陽生券軍至大都,詔伯顏諭之,釋其械繫,免死罪,聽自立部伍,俾征日本;仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人內選可為率領者。丙戌,劉秉忠、姚樞、王磐、竇默、徒單公履等上言:「許衡疾歸,若以太子贊善王恂主國學,庶幾衡之規模不致廢墜。」又請增置生員,並從之。秉忠等又奏置東宮宮師府詹事以次官屬三十八人。戊子,遣官詣荊湖行省,差次有功將士。禁京畿五百里內射獵。己丑,敕自今秋獵鹿豕先薦太廟。壬辰,中書省臣奏:「高麗王王禃屢言小國地狹,比歲荒歉,其生券軍乞駐東京。」詔令營北京界,仍敕東京路運米二萬石,以賑高麗。丁酉,立正陽諸驛。敕河南宣慰司運米三十萬石,給淮西合答軍。仍給淮西、(京)〔荊〕湖軍需有差。[3]壬寅,敕會同舘專居降附之入覲者。以翰林學士承旨和禮霍孫兼會同舘事,以主朝廷咨訪,及降臣奏請。征東招討使塔匣剌請征骨嵬部,不允。
(略)

十一年春正月己卯朔,宮闕告成,帝始御正殿,受皇太子諸王百官朝賀。高麗國王王禃遣其少卿李義孫等來賀,兼奉歲貢。
(略)
三月己卯,詔以勸課農桑諭高麗國王王禃,仍命安撫高麗軍民總管洪茶丘提點農事。己丑,呂文煥隨司千戶陳炎謀叛,誅首惡二人,其隨司軍併其妻子,皆令內徙。庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等,將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,戰船大小合九百艘,征日本。
(略)
秋七月(略)癸巳,高麗國王王禃薨,遣使以遺表來上,且言世子愖孝謹,可付後事。敕同知上都留守司事張煥冊愖為高麗國王。
(略)
十一月(略)召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三沒合等赴闕。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7008


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