調べかけなのだがこれ以上の文献探すのが大変なのでメモ扱い。
文永の役
弘安の役に比べると文永の役に関する記録は碌なものが無い。すぐ撤退したのも大きそう。元代は漢人が官僚になりにくい時代なので野史が沢山あったはず。取りあえず、元史の本紀至元11年(1274年)の記録を見てみよう。
元史世祖本紀
日本に三月に出兵したと書かれている。その内容は、女真軍と屯田軍に合わせて水軍とある。これが蒙漢軍の正体である。モンゴル人などほとんど居ないのである。漢人と高麗人と女真人が主力なのだろう。その次の十一月は退却した後であり、内容が書かれていない。どうやらフビライは南宋攻略戦の分遣隊の一つぐらいと考えて居た可能性がある。乗り気だったのは高麗王だろう。そういうわけで副将の劉復亨伝を当たる必要があるのだが(忻都や忽敦は伝すら無い)、その前に高麗史を見てみる。
高麗史世家第二十八
高麗史の記録を見ると壱岐までは書いてあるが、その後、暴風雨に遭って引き返してきたとある。史実と大分異なる気がする。実際には博多まで来ているはずだが、高麗人は、まるで壱岐より先、どこに行ったかすら知らなかったと思われる記述である。ちなみに蒙漢軍は元史の1万5000で、高麗史では2万5000になっている。差にあたる1万はもしかすると劉復亨の率いた兵なのかも知れない。元史っていい加減だし。
兵3万3000、漕ぎ手他6,700で1万3500人が未帰還とすると3割以上を消耗した事になる。ちなみに消耗率3割は全滅判定される数字であり、大敗と言えるだろう。
元史劉復亨伝
至元10年(1273年)になっており実に年号まで間違っている。しかも全滅したのに之を破るとはこれいかに……。松浦党には勝ったが、上陸に失敗したと言うところだろうか?その後、征東左副都元帥から淮南諸郡邑に降格していると言うことは失敗の責任を負わされたことを示唆している。税収が多い場所に転勤して、アホな戦争には二度と関わりたくなかったのが現実かも知れない。徴税は請負人制度なので富んだ地に差配して貰えば、わざわざ掠奪 に精を出す必要は無い。
元史洪俊奇(茶丘)伝
洪茶丘の伝も禄な記録がない。宜蠻(イマン)が何処を指しているのかよく分からない。音的に一番近いのは伊万里かな。
高麗史金方慶伝
そういうわけで高麗史の金方慶伝をみることにする。一番詳しくに書いてあるのがここなのだが……。
出航まで女真兵を待っていたと書いてある。つまり蒙漢軍の中身は女真軍……。松浦党には勝ったが上陸に失敗して船に戻ると撤退の相談を初め、結論が出ないうちに劉復亨が流れ矢に当たって船に戻り、さらに暴風雨に追い打ちされて撤退したと。
モンゴル人は出兵に乗り気ではなく、高麗人だけがやる気満々な感じ……。そもそも蒙漢軍の中身は女真人と契丹人だとすれば高麗人に付き合わされる方は逃げたいだろうね。兵と武器は遼寧と高麗から挑発している。糧食に関しては高麗が飢饉なので外から持ちこんだみたいな記述があった。
出兵の経緯
元史世祖本紀
金州と言うのは現代だと大連にあるのだが、当時もそのあたりの土地だったらしい。そのため金州戍兵(恐らく元と女真・高麗の間に配置された守備兵)には恐らく女真人と契丹人が多く居た可能性が高い。どうも元史では女真人を日本征服に使おうとした様である。そして高麗を占領した直後に動いている様である。
「劉整請教練水軍五六萬及於興元金、洋州、汴梁等處造船二千艘,從之。」とある様に南宋を攻める水軍なら十分用意出来ているのだが、水軍が欲しいので元寇を起こしたなどと言うトンチキな説をどこぞの教授が出していた様な……。漢文すら読めないのに中世の日本史の専門家を名乗る資格は無いと思うの。貴族の正文は、まだ漢文だから漢文も重要。