元史卷一 本紀第一 太祖 3

 再び前へ行き一山を下ると、数百の馬と牧者の童子が数人居た。戯れに髀石を撃っていた。ナチン(納真)はこれを熟視し、また兄の家の者であると。童子を問いただしてみると。そうであった。そこで山に登り4度顧みて人が来ないのみて、童子を殺し、馬を駈け、鷹を肘に乗せかえってくると、カイドゥ(海都)と病んだ老女を連れて行き、バルグト(八剌忽)の地に帰りとどまった。

※髀石(ひせき/シア) 鹿の距骨を磨いて作った遊牧民のおもちゃらしい

復前行至一山下,有馬數百,牧者唯童子數 人,方擊髀石為戲。納真熟視之,亦兄家物也。紿問童子,亦如之。於是登山四顧,悄無來 人,盡殺童子,驅馬臂鷹而還,取海都并病嫗,歸八剌忽之地止焉。


カイドゥ(海都)が長じると、ナチン(納真)は、バルグト(八剌忽)ケグル(怯谷)の民を率いてともに君としたたった。カイドゥ(海都)が立つと兵をもってジャライル(押剌伊而)を攻め、これを臣属させ、形勢を大いにそそいだ。

※八剌忽は現代中国語では巴尔虎(バルグ)と綴るらしい。

海都稍長,納真率八剌忽怯谷諸民,共立為君。海都既立,以兵攻押剌伊而,臣屬之,形勢寖大。


(八剌合黑河)の川上に営をとばり、河をまたいで梁を無し、便を往来させた。これをもって、四方の部族はことごとく帰服した。

※八剌/合/黑/河かな?

列營帳於八剌合黑河上,跨河為梁,以便往來。由是四傍部族歸之者漸眾。


カイドゥ(海都)が亡くなると、子のバイ・シンコル・ドクシン(拜姓忽兒)が跡を継ぎ、バイ・シンコル(拜姓忽兒)が亡くなるとその子のトンビナイ・セチェン(敦必乃)が継いだ。トンビナイ(敦必乃)が亡くなると、その子のカブル・カン(葛不律寒)が継ぎ、カブル・カン(葛不律寒)が亡くなると、その子のバルタン・バルカク(八哩丹)が継いだ。バルタン(八哩丹)が亡くなると子のイェスゲイ(也速該)が継ぎ、諸部落を併呑し、その勢力は盛大になった。イェスゲイ(也速該)が崩じたあと至元三年(1266年)十月に「烈祖 神元皇帝」が追諡された。

※チンギスカンの父まで

海都歿,子拜姓忽兒嗣。拜姓忽兒歿,子敦必乃嗣。敦必乃歿,子葛不律寒嗣。葛不 律寒歿,子八哩丹嗣。八哩丹歿,子也速該嗣,并吞諸部落,勢愈盛大。也速該崩,至元三 年十月,追諡烈祖神元皇帝。

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