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ヒッタイトは鉄の王国ではなかった

 鉄の王国と言う印象はヒッタイトが再発見された当初に植え付けられたイメージであり、特に日本で酷い。おそらく唯物史観と結びついた所為だろう。そもそもヒッタイトは、その本拠地のアナトリアが雨が多く寒暖の差が激しいため遺跡が残りにくく古代ギリシャの時代には既に忘れ去られており19世紀に再発見されたのものであるため、その概要は未だによく分かっていない。ヒッタイト人の使っていたヒッタイトが解読されたのは20世紀に入ってからである。それまでは古代エジプトなどの文献などを参照していた事になる。

 最近の考古学研究によれば、ヒッタイトの製鉄技術は、

  • 品質がよかったとは言えず

  • 大量生産できず

  • 鉄鉱石より隕鉄をメインに使っており

  • 鉄の武器は儀礼用に過ぎず

  • 鉄の製法は秘匿されていなかった

 ――と考えられている。つまり鉄の王国ではなく相変わらず青銅器時代だった。しかもヒッタイト末期の製鉄遺跡はヒッタイトの存在したアナトリアではなく、キプロス島とパレスティナに集中している。一説によればヒッタイトにおいても金より鉄の方が高かったとされる。

 ヒッタイトに於ける鉄の利用は宗教的儀式や装飾用に限定されており、日常から鉄が使われて居なかったとされている。

 ヒッタイトが強大になった理由は、鉄ではなく、政治的手腕と外交力にあったとされる。ヒッタイト王たちは巧みな外交と同盟戦略を駆使して広大な領土を支配し、交易ネットワークを活用して経済的繁栄を遂げた。ヒッタイトの属領は、広い自治権を認められており、軍隊供出の義務ぐらいしか持っていた無かった。しかし、その源泉となる政治基盤が寒冷化によって崩れ、外交や同盟が崩れ去ると瓦解する。製鉄技術の秘密が漏れたからでもなんでもなかった。鉄は外交に利用されていた様で、エジプトなどの文献に現れる。そのため鉄の王国のイメージがついたと思われる。

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