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異端審問――欧米倫理の根底にある虐殺嗜好

 欧米社会は、その進歩と文明化によって世界の中心となり、多くの価値観を広めてきた。しかし、その一方で、欧米倫理の根底には、時折、虐殺嗜好という闇が潜んでいるのではないかという疑問が生じる。

 虐殺嗜好とは、一般的には他者を殺害することへの執着や快楽を指す言葉である。これは個人や集団の中で見られることもあるが、本記事では特に欧米の倫理という観点から考察してみる。

 欧米の歴史を振り返ると、様々な大量虐殺が行われた事実がある。第二次世界大戦中のホロコーストや、アメリカ合衆国における先住民族の虐殺、オーストラリアでのアボリジニの虐殺、フランス革命時のギロチン送りなど、古くはアルビジョワ十字軍の異端虐殺、などが挙げられる。

 このような事件が起こった背景には、欧米の文化や倫理に根付いた傲慢さが関与していると考えることができる。中世のキリスト教による思想がこの虐殺嗜好に直結したと考えられるが実際はそれ以前の基層文化に根付いているものだと考えた方がよさそうだ。

 さらに欧米の倫理には、他者を支配し統制することへの執着が存在する。近代においては植民地支配や奴隷制度にみられ、現代ではWokeの暴走になどにみられる事実だ。欧米の倫理は、自己中心的な視点から他者を管理しようとする傾向がある。その発露が虐殺嗜好だ。

 欧米社会においては異端と見なされる集団や個人に対する迫害や異端審問が行われた歴史も存在した。異端とされた者たちは迫害や拷問、処刑といった非人道的な扱いを受けた。このような異端審問は、欧米の倫理における権威主義や排他性の一環として捉えることができるが実際のところ欲にまみれた権力者により行われている。

 欧米の倫理には、異なる者や思想に対する寛容さや包括性の欠如が見られる。自己の価値観や信念、正義を絶対視し、他者を異端として排除することで自己の正当性を確立しようとする傾向から生じる。これはキリスト教倫理だけではなく現代倫理でも明らかになっている。現代におけるWokeによる言論弾圧は矛先が異端から非リベラルに変わっただけであり本質は全く変わっていない。自らと異なる正義を火あぶりにする虐殺嗜好の基層部分は古代から全く変化していないのだ。

 少しは非欧米社会の寛容を学んでほしいものである。

異端者の目玉を抉る加虐快楽者のフランス王妃

 異端者の目玉をえぐって悦に浸るフランス王妃がいたらしい。どの王の時代か忘れたが11世紀頃だったか。もっともフランスの小説に出てくる登場人物が公開処刑で首が飛ぶのを見て興奮気味して、性行為を始める変態ばかりだからお国柄なのだろう。

 フランスの異端は南仏に多い。ここはカタリ派が強かった。結婚自体が罪悪で不倫も乱交も同列であるから不倫しても問題ないみたいな宗派だった気がする。そもそも西欧は一夫多妻制なのをキリスト教が強引に一夫一妻にしただけで、キリスト教下でもその風習は根強く残っていた。貴族が愛人を囲うのは古き時代ゲルマン人の名残である。ただしキリスト教は非嫡出子に相続権を一切認めなかった。ここが他の地域とおおきく異なる。つまり跡継ぎがいない場合、他地域では非嫡出子が後を継ぐのだが、西欧においては非嫡出子は一切の権利を持たないのでそこでお家断絶になる。

実際、アルビジョア十字軍と言う大仰な異端狩りが発生している。それでも南仏から異端は消滅しなかった。14世紀ぐらいまで大きな勢力を保持していたようだ。その理由は司教が私腹を肥やしていたからに過ぎない。余りに教会の畜生ぶりが酷いので、清廉なカソリックに属さない異端の聖職者を信望するようになったのだ。カタリ派やヴァルド派の聖職者はカソリックの豚共とはことなり概ね清廉だった。

 もっともそれをこまねいてみているローマ教会ではない、清廉な司教を送り込んで改宗させようと企んだのである。それがドミニコ会である。しかしドミニコ会の本性が清廉ではなく快楽殺人鬼の集まりだったのが問題を更に大きくする。

快楽殺人を合法化したコンラート・ドルソー、コンラート・フォン・マールブルク、ロベール・ル・ブーグル

 これらドイツとフランスの異端審問官の特徴は法的根拠が存在しないこと。法王の正式な許可もなく、司教区の免状も無い、領主から委託された裁判権も存在しない。要するに日本のツイフェミやパヨク活動家みたいなものだ。それらが自主的に異端審問を行い、恣意的に異端認定し、火あぶりをしていたのだ。

 法的根拠がないのに前大統領の捜査をしているどこかの国の検察官みたいだ。

 コンラート・フォン・マールブルクとその子分ドミニコ会のコンラート・ドルソー及びヨハンはドイツで異端狩りを繰り返し、資産を巻き上げていた。しかも、法的根拠は全く無い。コンラート・フォン・マールブルクは異端審問官に任命されていたが、その子分コンラート・ドルソーは正式に指定されてすらないのに勝手に異端審問を行っていた。宗教による法の無視がここでは行われており警察権も裁判権も一切無視し、恣意的基準で異端と認定し財産を没収し火刑に処していた。その畜生振りは大貴族にも及び火刑にしようとたくらんだ。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世を十字軍に参加させた挙げ句殺し、その夫人エリザーベートから遺産を奪うために修道院に閉じ込めて鞭打ちを繰り返し殺し、ラインラントの貴族ザイン伯ハインリヒ3世を異端として告発した。この試みは失敗した。結局、彼らは方々に恨みを買い過ぎ結局全員暗殺された。

 ドミニコ会のロベール・ル・ブーグルは北フランスで似たようなことを行った。あまりの行きすぎに大司教と軋轢を起こしていた。火刑だけではなく自らの発案により生き埋めまで行っていたと言う。あまりに法の無視が酷すぎたので司教達の突き上げを受け終身投獄にされた。

 彼らに快楽殺人狂以外の形容ができようか?キリストも草葉の陰で泣いていただろう。

異端審問を合法化したベルナール・ギー

 ベルナール・ギーは異端審問を体系化した人物である。それまで恣意的に行われた異端審問を法と手続きを通して行うことを提唱した。一見人道的に思えるが、拷問は否定していないし、近世の魔女狩りの教科書にもなった。

 しかしベルナルド・ギーを境に異端審問は下火になる。フランス王の権力と権威が高まり、ローマ教会の権威がなくなったのが大きいと考える。ベルナルド・ギーが異端審問官だったのは1323年までである。しかし、このときローマ・カソリックの権威を地に落とす事件が起こっている。アビニョン虜囚である。1309年 - 1377年の間、ローマ法王はフランス王に拉致されアビニョンに幽閉されていていたのである。この間、フランスの教会も異端審問官もフランス王の傀儡に過ぎない。1378年-1414年の間は、アビニョンから脱出した法王と対立法王によりローマ・カソリック自体が分裂していた。当然フランス王は、傀儡法王を支持したからフランスに於いては教会はやはり国王の傀儡に過ぎない。さらにはこの時期は百年戦争の最中になる。その正か異端審問官はイギリスに辿り付けなかった。百年戦争が終わるとフランス王は中央集権を確立し、もはやローマ教会の干渉を受け付けなくなった。国王は教会の上に居ることが確認され、教会の持つ徴税権も任命権も国王が保持することになる。こうなると異端審問自体に意味が無くなる。よき信徒は沢山税金を払う市民のことなのだから。

 しかし、国王が徴税権と任命権を持ったからといってもフランスにおいて聖職者の横暴が無くなった訳ではない。相変わらず私腹を肥やすのに所為を出していた。徴税請負人とやっていることが全くかわらない。更にプロテスタントとの間に確執を産むようになる。それゆえ、フランス革命の時、多数の聖職者が徴税請負人ともにギロチン送りになった。因果応報である。


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