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中世ヨーロッパに含まれない地域の奴隷制

 西ヨーロッパでも公式に奴隷制廃止されるのは12から14世紀らしい。ただしフランク王国では7世紀にメロヴィング朝時代にバルシルド女王が自身が奴隷だったためにこれを嫌い廃止したとされる。実際には古代ローマのラティフンディア制が崩壊した時点で、事実上崩壊していたとみなされている。これは古代ローマが奴隷の供給を戦争奴隷に依存していたため、ローマの領土拡大が終了すると奴隷が入手しずらくなり、価格が高騰し、一方没落したローマ市民の労働力が安く手に入ったからと思われる。そのため没落ローマ市民を小作人(コロヌス)として使うコロナトゥス制に移行する。要するに奴隷を買うより、その辺の貧民を雇った方が安く上がると言う資本主義的な理由で奴隷制が事実上崩壊したのである(原始経済では、このような理由による奴隷制の崩壊は起きないため北欧では奴隷制が温存される。なお日本では貧困層のセーフティーネットとしての人身売買が残っており下人などと呼ばれていた。これは江戸時代には年季奉公に置き換わる)

 4世紀に入ると小作人の土地からの移動禁止する法律が出されることにより農奴制に移行したと考えられているが、実際にはそんなに甘くなく、実際にはそもそもローマ人が住んでいないゲルマニアや北ガリア、ブリタニアなどの大規模農園自体が放棄された地域では小規模な散村集落からやり直しになっている。そのため荘園と村の領域が一致せず自由民と農奴が入り混じるよく分からない状態になった。イタリアなどでは威信財として家庭内奴隷が使われることがあった様である。また東ローマやイスラム圏に対する奴隷貿易そのものは残った。

アイルランド

 アイルランドでは恐らくケルト由来の奴隷制が存続していた。ところがヴァイキングの襲撃を度々受ける様になると襲撃を避ける為に同盟を結ぶようになる。この同盟はヴァイキングがイングランドやスコットランドから調達してきた奴隷をアイルランドが買い付けると言う形で成立していたようである。この同盟で買い戻したのがアイルランドの王女だったりするらしい。この奴隷市場は1102年のイングランドの人身売買禁止令により崩壊する。1171年にアイルランドに対するイングランド人奴隷解放令がでて奴隷制は終焉を迎える。

スウェーデン

 スウェーデンにはノルマン由来の奴隷制(スレール)が存在し、さらにロシア・ウクライナ周辺で調達したスラブ人奴隷をペルシアやコンスタンチノープルなどに売る商売を行っていた。スウェーデンで奴隷制が廃止されるのは1335年であるが、17世紀にアフリカ奴隷貿易にも参加しているため奴隷が存在しない時代の方が少ない。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Varangian_routes.png#mw-jump-to-license

 ヴァリャーグ(スウェーデン・ヴァイキング)の交易ルート

ノルウェー・デンマーク

 ノルウェー・デンマークもノルマン由来の奴隷制(スレール)が存在したが、この地方のヴァイキングは西へ向かったため奴隷の調達先は、スコットランド、イングランド、アイルランド、北フランスなどであった。あまりに酷いのでフランス王が北ノルマンディを割譲する始末。この地域の奴隷制も14世紀頃まで続く。

 14世紀頃に奴隷制は農奴制に置き換わったとされるが、そもそも農奴制自体が存在したかは複数の説がある。

チェコ

 大モラヴィア時代の奴隷貿易の重要な拠点の一つだった。その理由は、奴隷としてカロリング朝内の人民を奴隷として輸出するのが禁じられたので異教徒のスラブ人を取り扱うためである。プラハに集められた奴隷はバイエルンやヴェネツィアの奴隷商人によって、コルドバや北アフリカなどに売られていった。それ以外は西ヨーロッパに準じると思われる。

スペイン・ポルトガル・シチリア

 それ以前からゴート族由来の奴隷制が存在したが、イスラム圏にはいるため奴隷制が存続した。ポルトガルとスペインのレコンキスタの終わりとは近世を意味するため中世を通じて奴隷制が存在する。しかし近世に入っても奴隷を利用したプランテーション経営をしていたので19世紀まで続くことになる。

近代奴隷制

 ちなみに17世紀頃キリスト教神学における奴隷は戦争奴隷のみが合法とされていた様である。つまり犯罪奴隷や債務奴隷は認められなかった様である。戦争奴隷とは戦争による捕虜を奴隷として売る行為である。日本のイエズス会がどのように奴隷仲介をやっていたかと考えると戦争奴隷として扱うには切支丹大名を仲介しないと正統性が保たれない。切支丹大名は奴隷商人をやっていたと考られる。その筆頭は大友宗麟であり、高山右近や小西行長も奴隷商人だったと考えられる(小西行長、黒田官兵衛、高山右近のうち高山右近だけ棄教しなかったから追放っておかしくない?奴隷商人の前科があったのだろう)日本人奴隷の価格は相場より安かったと言う記録が残っている。価格で太刀打ち出来ない言葉の通じない黒人奴隷などポルトガル商人も運んでこない。特に戦国時代の場合、農村から拉致した方が早い(この手の行為は江戸時代に禁止される)

“girl of fourteen or fifteen years, a virgin and beautiful, for three or four scudos, more or less, according to the span they want to have her at their disposition.”

16世紀のパパ活おじさんの記録

 3-4スクード(スクードは32-36gの大型銀貨)を現在の貨幣価値に換算すると10万ぐらい?。

 この時代は既に期限を限定した年季奉公の方が中心だったが、ポルトガルの奴隷商人が年季奉公人を騙して恒久的な奴隷として売り飛ばしていた記録が残っている。

 戦争奴隷は合法とされると言うイエズス会の考えはアフリカでも適用されたようで、アフリカの奴隷貿易は、友好部族に武器を売り、その捕虜を奴隷として買い取る形で行われていた。そもそも悪しき近代奴隷制に対して、正統性をあたえたのがイエズス会なのである。

Lúcio de Sousa even found numerous instances of Japanese people held as slaves in Lisbon in the late sixteenth centur
(ルシオ・デ・ソウザは、リスボンに奴隷として拘束された日本人の事例を沢山発見している)
In the Americas, Jesuits not only justified (African) slavery on an ideological level; they became major slaveowners.
(アメリカ大陸に於いて、イエズス会はアフリカ奴隷をイデオロギーのレベルで正統化しただけではなく、自ら大所有者となった)


 黒人奴隷を使役するプランテーション奴隷は、西アフリカのマディラ島のサトウキビプランテーションで最初に使われたと考えられ、16世紀後半頃から黒人奴隷が主力で使われる様になり、本格的に奴隷貿易が始まるのは17世紀だと思われる。彼らは家庭内奴隷ではなく生産奴隷として確保された。これはサトウキビが熱帯周辺の作物なので、(白人の)年季奉公人では暑さや疫病に耐えられないのも理由だった様だ。

 イエズス会が奴隷制に反対していたと言う歴史改竄は駄目。布教の邪魔になるから一部の布教区で反対の声が上がっていただけでイエズス会全体としては無視されていて、イエズス会の奴隷制はリンカーンの奴隷制廃止まで続く。(南アメリカのスペイン領とポルトガル領からは奴隷制を辞める以前にイエズス会は追放されていた)

 キリスト教圏でも奴隷制は存在した。ロードス島の聖ヨハネ騎士団は人不足から奴隷制を採用し、イスラム教徒を拉致して奴隷にしていた。

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