VEI 7+ 946年 長白山(白頭山)大噴火

 タイムリーなので。VEI 7+とされている長白山の大噴火の時期ははっきりしない。なぜなら記録がほとんど無いのだ。

 この当時、長白山付近には渤海国の後裔国家の定安国があったとされる。長白山の近くに首都が有ったのでは無いかと推定される。しかし、定安国自体の記録が宋史に記録されているぐらいで、噴火が何時起きたかはサッパリ分からないのである。中国も五代十国時代で、辺境に何の興味も無いから火山が噴火しようが知ったことでは無かった。燕雲十六州(今の北京一帯)ですら割譲してしまうぐらいである。

 そのため降灰や五代史や日本の記録(冷害)から946年ではないかと推定されている。推定年代は969 ± 20年で実は946年よりも後の年代になっているのであるのだが。

 それではその年の高麗史の記録はどうなっているのだろうか?

定宗

元年
○(丙午)元年春正月,王將謁顯陵,致齊之夕,聞御殿東山松間,有呼王名,若曰:「爾堯,存恤細民,人君之要務。」是歲,天鼓鳴,赦。王備儀仗,奉佛舍利,步至十里所開國寺,安之。又以穀七萬石,納諸大寺院,各置佛名經寶及廣學寶,以勸學法者。

 

 この時代の高麗には長白山どころかまともな記録自体が無いのだ。三国史記の新羅本紀より大幅に減っているのである。高麗史は李氏朝鮮時代に編纂されているので都合が悪い記事を削除したとしても、あまりにも切り捨てしすぎており、李氏朝鮮以前に記録が焼失したか漢字を忘れていたと考えるのが合理的だろう。高麗史にまともな記録が出てくるのは宋の成立以降で、この時代、高麗には読み書き出来る人材自体がほとんど居なかった可能性すら否定出来ない。

 ともかく、このような大噴火が起きたにも関わらず、音がなった以外の記録が無いのはそもそも長白山が朝鮮民族と全く関係無い山だからである。

 ちなみに947年に契丹は遼に改名しており、改名は長白山の噴火と関係あるのかもしれない。しかし破局的大噴火にもかかわらず遼史にも記録は無い。そのくらいの辺境だったのであろう。北朝鮮と満洲南部が崩壊したとしてもそもそも人がそんなに住んでいないので記録が埋もれてしまえば残らないのだろう。

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