真の暗黒時代、近世ヨーロッパ

序文

 近世と中世の混乱が見受けられるので取りあえず整理のために書く。何しろヨーロッパの学者すら混同しているのだ。概ね中世と言うのは西ローマ帝国の滅亡から東ローマ帝国の滅亡までの5世紀から15世紀を差している(どこを境目にするか諸説あるが大きくは動かない)。つまりそれ以降は近世にはいる。中世は封建主義の時代であり、近世は、絶対王政が確立した時期に相当する。そしてフランス革命以降は近代に分類される。つまり近代は、国民主権の時代を差し、なろう系でよく言われるナーロッパは、概ね王権が確立しているので近世に入る。しかし、ナーロッパの特徴は、そこに火器が存在しないのだ。そもそも衛生と言う概念が19世紀で、近代の話であり、まともな医学はここ半世紀にすぎず現代の概念である。日本人の考える中世ヨーロッパとは、近世ヨーロッパから外洋船と銃器を削除したものなのである。ナーロッパでよく帝国って出てくるけど、ロシア帝国だし、ロシア帝国の成立は1712年になる。本当に中世の帝国をだすのなら神聖でもローマでも無いあの国や、オスマン朝の二択になると思う。ビザンツ帝国も帝国だが、政体が特殊すぎて扱いにくいし、それ以前に弱い。遊牧民の帝国は強いがすぐ崩壊してしまう。

 ――とはいえこの話をメインでは、創作のファンタジー世界は中世ではなく近世ヨーロッパの方を参考にした方がリアリティが出る話を書きたいわけでは無い。そして中世について書くわけでもない。

 そもそも中世が暗黒時代とされるのは単純にまともな記録が無いからである。ローマ帝国崩壊ともにイングランドでは文字が消滅し、アングロ=サクソン人による無文字文化に逆戻りしている。イングランドに再び文字が導入されるのはアイルランドの修道士によるもので、そのため11世紀頃までまともな記録が無い。イングランドには七つの王国があったとされているがその記録はどれもよく分かっていない。フランク王国ではそこまで酷くなかったものの本質的にはあまり変わらない。カール大帝以前と以後は混乱を極めており、国も人もバラバラだったのである。10世紀のカペー朝からフランスはバラバラになってた王権を集権し、再統一するのは、百年戦争後の15世紀になる。ドイツは19世紀に至るまでバラバラだったのである。スペインはイスラムの支配下から独立していく過程にあった。イタリアは当時の先進国だが、ローマ時代の文献は失われており、ローマの遺跡を建材に使っているぐらい。水道橋などが今も残っているがむしろ当時の技術で壊せないからそのまま残ってしまったとも言う。

 同時に中世はキリスト教がヨーロッパに伸長していき、最大権力を得た時期でもある。11世紀に入ると温暖期も有ってヨーロッパの国力が高まり聖地を取り戻そうと言う動きになる。いわゆる十字軍である。この十字軍は13世紀まで繰り返されるが聖地を失陥したことにより終了するわけである。

 北欧ではまだキリスト教は普及していなかった。北欧のキリスト教化自体が12世紀以降までかかっているのである。

 このようにキリスト教が普及したあと、そこからが問題の確信になるわけである。キリスト教が権威化してくと在地勢力と衝突し対立をくりかえしていく訳だ。武力を持たない教会がよりどころにするのは聖書と信仰である。これがヨーロッパ全体をねじ曲げていくのである。しかし、中世はまだキリスト教の権威がヨーロッパ全域に行き割っていないのでその影響はむしろ限定的だったのである。教会がどう言おうと異教徒や異端がキリスト教徒と混ざって住むことが現実的でありそれが許されていた緩い時代なのだ。中世はエネルギーが外に向いていたので内の問題が無視できたのである。既存の利権を奪うより外に勢力を伸ばした方が簡単だったからだろう。

 キリスト教の存在はヨーロッパ人に文字文化を与えた。教典がある以上、聖職者は文字の読み書きが出来る必要がある。経典宗教は文字を媒介とする点で、それ以前の口伝宗教とは大きな違いがある。日本に於いて僧侶が知識階級に入ったのは仏典を読むために読み書きに通じていたからだ。そして商人が文字は便利なツールであることに気がつくとそこから広がっていく訳である。しかし、大半の中世の貴族はまともに読み書き出来ないのである(無論例外も居る)。偉い人でも下僕に読ませれば十分だから中世において文字は聖職者のものだったのである。中世からキリスト教を引いたヨーロッパは蛮族が割拠しているだけの無文字文化圏に過ぎないのである。だから中世は暗黒時代と呼ばれるのである。しかし、文字と文化の優劣を問ういたいわけでは無い。ここでは近代ヨーロッパ人から見た蛮族の定義をのべているにすぎない。

 ここで使う暗黒時代とは無文字を差すのでは無くディストピアの方を差す。近世ヨーロッパはキリスト教原理主義により始まる暗黒時代なのである。キリスト教は、ルネサンス期に入ると政治力を失っていくものの理論武装を手に入れ倫理や道徳を支配していくのだ。そして非合理に倫理や道徳を振りかざしたのが、異端審問であり魔女狩りである。これらは内での利権の奪い合いが根底にある。それを更に悪化させたのは宗教革命である。この革命は聖書原理主義を確立し、タリバンも真っ青の社会をヨーロッパ内に確立したのであった。

 つまりヨーロッパの真の暗黒時代は近世から始まるのだ。この暗黒時代は神が死んでもまだ続きポリコレにまで直結しているのだ。

 軽く書くつもりが短編一本分じゃないか……。

寛容だった中世キリスト教

 聖書において魔女が悪と言う文字は存在せず、それ以前に魔女の存在を容認しているのである。そう、中世に於いては魔女の存在は容認されていたのである。それどころか聖書で悪とされている同性愛も黙認されていたようである。同性愛が重罪になるのはドイツにおいては1532年、イギリスでは1553年らしく、それまでは滅多に犯罪に問われなかったようである。中世末期の1232年頃、時の教皇グレゴリオス9世は同性愛を異端と扱うように、それ以降同性愛が禁止されていくようである。この流れは教皇権拡大と対になっている感じだ。つまりヨーロッパで同性愛が犯罪なのは中世ではなく近世と近代である。非犯罪化したのは近代フランスぐらいなのである(フランス革命は、魔女の代わりに司祭をギロチン送りにした)

 そもそも中世盛期のキリスト教は権勢著しかったため完全に腐敗していた。免罪符を売り、司祭は妾を持ち、ざんげ室ではざんげの代わりにセックスをし、尼僧は売春婦で、11-12世紀頃の司祭は同性愛にも耽っていたようである。これを嫌い修道院がいくつも立ち上がるが修道院も似たようなモノだった。女修道院などは、ほとんど売春宿だったようである。だから売春宿チートしようとしてもだめだよ。売春は教会のしのぎだからね。

魔女狩り

教皇権拡大のために行われた異端審問

 さて12-13世紀頃教会法で同性愛が重罪となった理由と異端諮問は明確に関係があると思われる。この時代、腐敗していたカソリック教会を批判して古いキリスト教を求めたのが南仏のアルビ派だった。アルビ派は、キリスト教の中でも寛容でユダヤ人差別もなかったと言う。形骸化したカソリックの儀式を否定し、教会と十字架と聖職者を否定した。また同時期ヴァルドー派も聖職者を否定した。この集団はトゥールーズを中心に大きな勢力を張っていた。

 これはカソリックに取っては邪魔でしか無い。ローマ教皇の権威の否定であり、教会に納められる十分一の税が教会の収入源なのであるから教会の否定とは十分一の税を払わないのと同義でもある。そのため異端の排除を行うのである。これがアルビジョア十字軍の正体である。要約すると利権の為の虐殺と掠奪にすぎない。この時代の騎士は強盗とさほど変わりが無いから、この切り取り放題の掠奪に悦んで参加したことだろう。なにしろローマ教皇のお墨付きで掠奪が出来るのである。この事件を契機に、異端諮問裁判が始まり異端を重罪として処罰するようになる。要するに中世期末期に入ると教皇の権威と支配に陰りが見え始めたので権勢と利権の維持のために行ったのが異端十字軍と異端審問の正体なのである。

※ この時代の騎士が皆、強盗レベルなので啓蒙するため騎士道物語が出来たという。近世に入っても山賊レベルであり、そのためマナーが作られたのである。近世に入っても貴族も手づかみで食事を食べ、食い散らかしを床にまき散らしている。人間らしい食事を始めるのは近世後期に入ってから。

 これが近世の始まりなのである……。近世は啓蒙主義の起こりとそれを潰す旧守利権のせめぎ合いから始まるのである。

 その全ては教会が利権を守るために始めたのである。しかし、そうと言ってもアラビアから古代ギリシャや新しい科学が流入してくるにつれ、教会そのものも変質する必要があった。教会も啓蒙主義を取り込んだのである。その一つがアリストテレス哲学だと思われる。

 しかしアリストテレスは古代ギリシャの中でも難あり(無理数を否定したピタゴラスほどではないが……)で0と無限を否定していた。また天動説を支持し、地動説を支持しなかった。これが近世に於けるヨーロッパの数学と科学の足枷になるのである。例えば1600年、修道士ジョルダーノ・ブルーノは、無限を肯定したと言う理由で異端認定され火あぶりなっている。

 しつこく書くが、1600年は近世である。

 そう、旧守利権層が啓蒙主義を取り込んだ結果、タリバン顔負けの原理主義化したのが近世ヨーロッパの正体なのである。異端審問こそ近世ヨーロッパの萌芽なのである。

近世の始まりスペインの異端審問

 ともあれ異端審問制度は、キリスト教が寛容から非寛容に移行した瞬間である。まだ中世後期の話であり、近世ではない。また異端の発生が教会の腐敗が原因だったのでドミニコ会など清廉な修道士を採用し、異端を処罰させると言うより当初は改心させる方に向いていたようだ。しかし、権力は腐敗するものであるがゆえ異端審問自体が利権装置に変化していくのである。異端諮問はイタリア、ドイツ、フランスで猛威を振るった。

 このように作られた異端審問は、スペインの王権と結びついてスペインで猛威を振るう事になる。これはスペインがレコンキスタ国家であり、ローマ教皇と深く結びついていたのもあろう。長い間イスラム諸侯とキリスト諸侯が混在していたイベリア半島に於いて支配の正統化にキリスト教の権威が必要だったのもありそうである。スペインの成立は1479年で、東ローマ帝国の滅亡は1453年である。つまりスペインと言う国家自体が近世に始まるのである。

近世に広がる異端審問

 日本にやってきた宣教師は布教のためにグーテンベルク印刷を持ち込んでいたが、印刷機の登場は異端審問の効率化ももたらした。異端審問の教科書はベルナール・ギー(ドミニコ会)の『異端審問の実務』、ニコラス・エイメリコ(ドミニコ会)の『異端審問官指針』などがあったが、最初は手稿本であった。印刷機の登場と共にこれらの異端審問の教科書も印刷され、異端審問官に配られてのである。

 異端審問官は、ゲシュタポの祖先である。近代の異端審問官のトマス・トマルケマダ(ドミニコ会)は全スペイン異端審問官本部の初代長官についた。このトマルケマダこそ、スペインのユダヤ人追放を行った人物であり、それに同情するものですら罪に問うたのである。

異端審問から魔女狩りへ

 この時期はまだ異端に対してのみであり、まだ魔女狩りは行われていなかった。異端審問の本質は異端認定したものから身ぐるみを剥ぐことである。しかし、時代が降ると金持ちは異端ではない仮面をかぶるようになり異端に認定されるのは貧困層だけだった。これはすなわち異端審問は金にならなくなったことであり、世俗領主も協力的ではなかった。しかし、異端審問が世俗領主の協力が必要であったことは、異端審問が他の尋問にも取り込まれていく事になるのである。尋問は残酷を窮まり、拷問のみにより自白を促す、人権の無い暗黒時代がここに始まるのである。ただし、イギリスでは拷問が禁止されていたので、この拷問は主に大陸ヨーロッパで行われていたのである。

 中世に起きた大きな異端審問の一つは、テンプル騎士団の異端審問である。これはフランス王は、テンプル騎士団の財産目当てに行ったものである。もう一つにジャンヌ・ダルクの異端審問がある。ジャンヌ・ダルクの異端審問には魔女狩りの性質もあるが、基本は異端審問である。これはイングランドの政治的理由で行われた異端審問である。このように異端審問は世俗権力と結びついていたのである。

 本来、キリスト教は魔女に寛大であった。仮に処罰されるとすれば、それは呪詛などを行っていたからであり悪事を働かずに罰せられる事は無かったのである。しかし、異端審問の罪状に悪魔崇拝などが追加されていきその範囲が拡大していったようである。1260年頃は魔女に対してまだ寛容であったが1318年になると風向きが変わったようである。この年を転機としてローマ教皇から魔女弾圧令が乱発されるようになる。しかし、まだこの時期は異端審問に魔女が含まれていただけであり、魔女狩りでは無かったのである。

 真の魔女狩りはその100年後、つまり近世に始まるのである。近世に入ると魔女の定義が論ぜられ、魔女と認定されれば悪魔崇拝者として火あぶりにされるようになる魔女裁判が始まるのである。この魔女の定義はカソリックに留まらず、プロテスタントにも採用されるのである。つまりその信仰にかかわらず魔女狩りは行われたのである。この魔女はwitchの訳語であり、女性を指すとは限らない。ドイツでは市長や司祭が魔女として処刑されている例がみられる。

 この魔女論は神学の発展と対になっている部分があり、古代ギリシャの哲学と密接な関係があるスコラ哲学を取り込んだ結果である。つまり近世キリスト教は、アリストテレスを取り込むことでタリバン顔負けの原理主義に向かっていたのである。中世においてアリストテレスによる理論武装を手に入れたキリスト教倫理は近世において暴虐を極めたのである。そしてそれは性を汚れとする近代キリスト教とも密接に関係しているのである。

 16-17世紀には魔女裁判が多数行われ、多くの被害者を出した。しかも異端審問と違い魔女裁判の判決は基本死刑のみなのである。子どもだろうが全て死刑に処されたのである。そして魔女にされた家の財産は聖職者により没収されるのだ。異端審問にはお金がかかるし、処刑にもお金がかかるので金持ちほど狙われやすかったことになる。そして魔女狩りの特徴は自白により共犯者をいくらでも増やせるところにあった。

 こうして古代ギリシャの叡智を手に入れたがゆえに似非科学に陥り、近世ヨーロッパの庶民とキリスト教は中世より蛮族化していったのである。近世ヨーロッパの道徳は、自らの作り出した迷信を信じてむしろ蛮族化していった時代なのだ。

 ただし、イギリスは魔女判決が出ても死刑になる率は半数だったらしく、エリザベス一世からジェームズ一世の間以外は魔女裁判に積極的ではなかったようである。

魔女の代わりに処刑される司祭

 近世の終わりは1789年のフランス革命とされている。その時、大量に処刑にされたのが司祭と徴税請負人である。フランス革命はキリスト教の権威を否定し、大量の司祭をギロチン送りにしたのである。処刑する側が処刑される側に回ったのは皮肉だろう。

 それ以前に魔女裁判は終了している。イングランドは1717年、スコットランドは1722年、フランスは1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、スイスが1782年、ポーランドが1793年、イタリアが1791年である。つまり近世は魔女狩りに始まり、魔女狩りで終わったのである。領主とキリスト教の結びつきで始まり、最終的には為政者にキリスト教の権威が否定され終わったのである。

魔女狩りに抵抗した人々

 少なからずこのような野蛮行為に反対するものも居た様である。しかしこれらの人物の文書が見つかるのが19世紀に入ってからなのである。それまでその文書を公開すること出来なかったのである。焚書の恐れがあり、公開した側も魔女狩りに合う可能性があったからであろう。

ルターと聖書原理主義と反科学

 近世はルターが宗教革命を起こし、近代化への道のりを作ったとされている。実は逆なのである。ルターは聖書原理主義に則り逆方向へ突っ走ったのである。つまり反科学である。また、ルター自身が魔女に対してこういっている「私は、彼らを皆殺しにしたいと思う」

 宗教革命により魔女狩りは一層熾烈になるのであった。これには旧教・新教が互いに魔女認定していたのもあるが、新教の魔女狩りはさらに熾烈だった。その根底が金ではなく信仰であるから更に始末に負えないのだ。

 近世ドイツの著名な法学科の一人にベネディクト・カルプツォフと言う人物がいる。ルター派の彼は、裁判官の経歴で二万通の死刑宣告書にサインしたといわれている。フランス革命時に世界で二番目に処刑をしたとされるシャルル=アンヌ・サムソンは2700人をギロチンで処刑したとされており、フランス革命時の死刑宣告者全体が2万人程度とされている。しかもフランスの人口が2400万なのにたいし、カルプツォフはザクセンでこの人数を叩き出しているのである。当時の全ドイツの人口は1600万人ほどでザクセンはその一部にすぎない。この人物は、科学的検査法の無い中世法が、有罪にするのに自白を必須にしていたのすら廃止し、他人の証言だけで死刑執行を可能にしたのである。どこぞの原理主義者も顔負けの所業をしたのだ。

 そしてカソリックが寛容から不寛容に移行したもの本質的には寛容であったのに大使、プロテスタントは一から十まで不寛容だった。ルターは、カソリックでようやく受け容れられつつあった地動説を否定した。ルターにとって聖書が絶対であり(実際にはアリストレスなのだが)、それと矛盾する科学は全否定する反科学なのである。この反科学的志向は今でもルター派の影響を受けているプロテスタント全般にみられる。

 そして新旧対立がピークになり起きたのがドイツ三十年戦争である。日本では江戸時代初期に起きたこの戦争は、ドイツの人口を1/3に減らしたとされている。暗黒時代にふさわしい所業である。

 このような時代であるから科学者も魔女狩りに合うリスクを抱えていただろう。ガリレオが異端審問を受けたのは有名な話だが、ケプラーも母親が魔女狩りにあっている。もっともケプラーの母親は自白をしなかったため釈放されている。この時代で魔女として逮捕されたものが釈放されていることが異例である。ニュートンは魔女狩りが緩いイングランドに居たのが成功の原因だろう。しかし、ニュートンは最後の錬金術師と呼ばれている様に中世の世界観を捨てることは無かったのである。

 プロテスタントによる魔女狩りはアメリカでも起きている。1692年のセーレム魔女裁判事件はあまりに有名である。17世紀末は、近世から近代の移行期にあたり魔女狩りは既にピークを越えた時代である。この時期には作られた魔女迷信は既に力を失っていたようである。ただし、アメリカで起きた魔女狩りはこの一件のみの様である。

禁書目録

 禁書目録は1560年――すなわち近世――にカトリック教会が作った出版禁止の本の一覧である。異端の書として禁書目録に載せられると出版物を発行できなくなった。そのリストに載っていたのはケプラーやカントの書など、現代科学の祖とされる書も入っていたという。

 禁書目録が作られた理由の一つには、印刷機の登場が大きい。印刷することで大量の本を出版することが出来るようになったのである。それ以前の時代は人の手で書き写すしか無かったので部数が出なかったのでわざわざ禁書指定する必要も無く、焚書すればそこで終わりだったのである。

 出版の制限はカソリック教会だけではなく国によっても行われており、イギリスやフランス独自の禁書目録が存在したようである。もっともイギリスは1710年に、フランスでは革命後に緩和されたようである。この制限によりイギリスとフランスの科学はドイツに差を付けられたという。一方ドイツは諸侯が入り乱れており、カソリックから離脱諸侯も多く、禁書目録は全く意味が無かったと言う。

 なおカソリックによる禁書目録は1965年にようやく廃止されたのであるが、面白いことに禁書にされた本には地動説や自由主義に関する本が多く、一方進化論は禁書に入らなかった。

失われた女性の権利

 日本に来て織田信長の下にいた宣教師ルイス・フロイスが日本とヨーロッパを比較した記録がある。この女性の項目をみると興味深いことが分かる。日本において女性の権利が広範囲に認められていたこととヨーロッパに於いて女性の権利がほとんど無かったことである。

 そもそもキリスト教は処女厨を拗らせており、非処女に価値が無いと考えていた。また離婚の権利は無かった。実質上の離婚である結婚無効の申し立ては男性によってしか行えなかった。日本では女性側から申し立てることが可能だった。また日本において女性は財産権を所持しており夫も手出しできなかったが、ヨーロッパにおいては共有財産であり、女性は自由に出来なかった。結婚すると共有財産になるのを利用し近世フランスでは貴族の女相続者掠いが横行していたと言う話がある。ヨーロッパにおいて娘は家に閉じ込めておき、まともな教育を受けさせて貰えないため読み書きが出来る女性は限られていた。また妻は夫の許しを得ないと外出が出来なかった。一方、日本においては妻も娘も外に自由に出かけることが出来、上流階級の女性の多くは読み書きが出来たのである。そして離婚はどちらからでも可能だった。この辺りは江戸時代でもさほど変わらなかったようである。

 そして、アリストテレスと聖書のジェンダー論と結びついたのが12-13世紀頃の様である。そして近世に入るとより女性は男性に劣ると言うレッテルを貼られることになったのである。宗教改革はそれを更に悪化させたのである。聖書原理主義者のルターは、女性は聖書の通り生きるべきだと結論づけたのである。それは女性は男性に従属しろと言う意味と同義である。

 したがって、プロテスタントとカソリックもさほどかわらないジェンダー感を持っていたため、近代に入っても女性の抑圧は変わらなかったばかりかプロテスタントの方が聖書原理主義な分、余計に酷くなったのである。

 このような考え方は、イギリスに於いては12世紀に法制化されていき、15世紀に完成したようである。つまり近世は妻は夫に従属する存在になり、中世にあった権利までも奪われたのである。妻は財産権を奪われ、夫は暴力を振るう権利を得たのである。この法律はアメリカなどのコモンロー地域にも反映された。女性が権利が取り戻すのは1882年のことである。そして同様のことが他の欧米諸国でも起こっていたのである。先に述べたフロイスはポルトガルの出身であるからポルトガルも似たようなものだったのだろう。

 キリスト教原理主義により、近世ヨーロッパの女性は、結婚した女性は従属契約を結んだと見なされて全ての権利を夫に譲り渡されたと考えられたわけである。これに束縛されないためには独身を貫くしか無かったのである。そして、今でも欧米は夫が財布を管理していることが多いのである。日本の実態はその真逆に位置する。日本でフェミニストが幾ら吠えても一笑に付される原因はここにあるのだろう。

 また、日本人との国際結婚で離婚したときの扶養権が問題になることがある。このような考えが根底にある欧米では財産権が全て夫にあるため子の扶養権も夫に属すると考えるのである。一方、日本では女性に属するのだ。この文化背景の違いが問題を引き起こすのである。

性に厳しい近世プロテスタント

 魔女狩りだけではなく性に厳しいキリスト教ができあがるのも近世である。先に書いたように中世キリスト教は、司祭が妾を作ったり、修道女が売春したりする世界で、むしろ性に緩いのである。実際に厳しいのはドミニコ会、イエスズ会などの一部の修道会だけである。要するに戒律を守っていなかったのである。それが厳しくなるのは近世に入ってからである。

 プロテスタントはそれに対するアンチテーゼとして産まれているため禁欲主義を第一に掲げた宗派が多い。つまりカソリック以上に性に厳しいのである。特に聖書原理主義に走ったため聖書の字句をストレートに実践しようとしたのである。そこに方便が存在しないのである。そのためプロテスタントは家父長主義的で処女厨を拗らせまくってしまったのである。処女厨を拗らせた結果が婚前交渉禁止などと言う項目になるのである。例えばカルヴァンは婚前交渉が姦淫の罪であると『キリスト教綱要』に書いている。そもそも快楽のための性行為自体を罪としているので正常位以外は認めない、オーラルセックスは禁止などと言う謎の法律がアメリカでは成立してしまっているのである。

 例えば12世紀の中世イギリスでは婚前交渉は禁止されておらず、近親婚もあまり問題にならなかったようである。そもそもカソリック教会自体が黙認していた様である。これが厳しくなるのは1545年のトレント公会議以降だ。この公会議自体、プロテスタントに対抗するために行われたものであると言うことを付け加えておく。要するにキリスト教に於ける性の厳格さは近世に入ってからプロテスタントが先行し、カソリックが後から追いかけたのである。

同性愛が死刑になった近世

 聖書によれば同性愛はソドムとゴモラの話により重罪に値するらしいが、実際には中世のキリスト教は同性愛を黙認していた様である。その風向きが変わるのは13世紀に異端審問が始まったからである。それが法に明示されるのは神聖ローマ帝国では1532年、イギリスでは1533年、プロイセンでは1620年の様である。フランスでは1283年、イタリアでは1232年に異端審問の対象に入ったがフランスに於いて法に明示された時期は不明である。これが覆されるのは1791年のフランス革命後である。つまり近世を通じて死刑だったのである。しかし、近代に入っても偏見や弾圧はその後も続き、容認されるのは20世紀に入ってからである。

 ところでイギリスの場合、王族や貴族に同性愛者が多かったおかげで法が徹底されておらず、希に同性婚が認められるケースもあったようである。イギリスが同性愛に厳しくなるのは逆に19世紀に入ってからの様である。

 実際のところにカソリックにおいて同性愛の摘発が徹底されていたと思えない。なぜなら今でも司祭の大半は(以下省略)

女性がズボンを履くのは違法

 ヨーロッパにおいて異性装は罪悪で違法だった。それどころか魔女として火あぶりになる可能性すらあった。これは近世どころか近代に入る19世紀になっても違法であったのである。フェミニズムやウーマンリブと言うのはズボンを履く権利を求めた権利闘争だったのである。

 キリスト教の倫理観によるもので、旧約聖書の申命記に以下の記述がある

女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%94%B3%E5%91%BD%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC22%E7%AB%A0

 この異性装は、トランスジェンダーによるものだけでは限らないのである。例えばオランダでは17-19世紀の間に男装の罪で逮捕された裁判にかけられた女性が多数いたようであるがその動機はまちまちだったようである。男装することで男性にしか付けない職につくなど金銭的理由や同性愛者が同性愛に見えないようにするための偽装と言った理由があったようである。

 異性装は上流階級ではある程度容認されていたものの庶民ほど容認されていなかった。異性装者が護送されるときには石を投げつけていたようである。

 ズボンが駄目というのは男装に見える男装だけではなく、男性が着る服を着るのも駄目と言う意味である。ルイス・フロイスの記録を見ると

男の衣服は、われわれの間では女に用いることができない。日本の着物quimoesと帷子catabirasは男にも女にもひとしく用いられる

ヨーロッパ文化と日本文化 ルイス・フロイス

 ――とあり欧州人は日本の服を男女兼用と考えていたようである。実際には男女兼用ではないのであるが、ルイス・フロイスがこう感じ取ったと言うことは、ヨーロッパにおいて女性の服が、男性の服と形状が似ているだけでも駄目だったようである。

 ヨーロッパに於いて倫理観に反する異性装が容認されるのはナショナリズムの高まりが原因らしい。どうやら男装した女性兵士が国を守ると言うシチュエーションが容認された事に起因するようである。女性が男装する理由の多くは女性が付けない職を得るためであり、兵士になる女性も多かったからのようだ。

 19世紀のフランスの考古学者ジェーン・デュラフォイは政府から特別な権利を得ていた。その一つが男装する権利である。当時のフランスでは男装は違法だったのである。男装と言うより女性がズボンを履くことが駄目だったのである。彼女が男装していた理由は、女性の行動が制限されるイスラム圏で自由に行動するのも一因だったらしい。また女性が兵士として戦う権利のために運動していたようである。19世紀に入っても男装はキリスト教の倫理観では悪だったのである。

近世ヨーロッパの残滓

 宗派の分裂とキリスト教の権威の低下により近代に入ると暗黒時代を抜けていくのであるが根強い偏見は残り続けた。それは今でも消えていない。今でもキリスト教の一部の宗派は性的表現自体を忌み嫌い焚書を行っている。その影響を日本も受けている。これは開国後の日本の上級国民が西洋にかぶれ、戦後日本がアメリカの影響圏にあったのが大きいだろう。少なくとも戦国時代には、ある程度女性の権利が認められている。それが明治に入ってきたキリスト教原理主義により剥奪されたのである。日本に導入された家父長制には裏づけをする神学が存在せず、単純に富国強兵のために当時の欧米の法制度を取り入れただけなのである。それもフランスとドイツでわという出羽守論法で取り入れられたのだ。しかも実態にそぐわないので効力が全く無かったのである。日本の家父長制は欧米信仰の異物で、今のジェンダーギャップはその異物が日本古来の家業制に適用された時、内と外に家業が二分化してしまった結果なのである。ゆえに日本でジェンダー論を論じる時に欧米のロジックをそのまま使ってはいけないのである。

 この近世ヨーロッパの暗黒面を凝縮させたのナチスである。民衆の怒りや妬みを武器にしてアーリア人至上主義を持って異教徒を殺す。これは中世の魔女狩りとなんら変わりが無いのである。アリストテレスとキリスト教が融合して近世の暗黒時代が産まれた様に、キリスト教と優生学が融合して芽吹いたのがナチスなのである。

 そしてポリコレはキリスト教原理主義の反動にがあるが本質的には同じものである。ひとたび異端と認定されば焚書され社会的に葬り去られるのだ。やっていることは魔女狩りと何一つ変わっていないのである。欧米人は、何百年も成長していないのである。これがEUの死刑の背景にある。あらかじめ歯止めをかけないと自国民を全て死刑にしかねないのである。

 またイスラムでは本来女性の権利が認められており財産権も有しているのである。これに逆行しているタリバンやISは実は近世キリスト教のキリスト教原理主義をひきついでいるのである。

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