見出し画像

沈黙

読了

沈黙は禅家も説くものだが、南伝系のこれでも沈黙を説く。
心の沈黙でもある。ベラベラ喋るなというのはむろん大前提。

不肖俺が読んだ程度で理解など一割もしてないだろう。
だがその言わんとする事は辛うじて。

「言質を取られる」というのはよくある。多弁の弊害というモノだろう。

人付き合いでも、ちょっとした行き違いは余計なヒトコトから始まり抜き差しならぬ事になるのはよくある事。ソレで進退窮まる事がよくあるので身につまされる。この身につまされるのが気づきというのなら、それも読書の役得であろうか。よってワカランまでも本を読む。

真に自分のモノにするなら、関羽みたいに春秋左氏伝を暗唱できるまで読み込む事が自分のモノにするという事になるだろう。もちろん3世紀の人物と21世紀の人では同一には論じ得ないが、関羽の物まね位はしておいた方が何かと過ちも減りもしようか。

ともあれ沈黙である。まずはSNSで試しにやってる。心とクチの沈黙の末に雑念の消去とその場での集中という事を本書では説いてるが、もちろん僧のようには暮らせぬ浮世の凡夫の身なれば凡そ限定的なモノにはなる。

絵を描くのが好きで、つまらぬ絵を描いては公開してるが、余計な講釈を付ける必要はないだろうと、好きな絵だけは続けて黙ってあげる事にした。いつまで続くか知れたものではないが、まあチクと。コメントがまれに来るが「いいね」で応じるだけにしようと。それすらやらんと「やあナニゴトを根に持って逆意でも抱いたるか」と思われてもかなわぬ。

まずは小さなことから始めよう。小さいモンを積み重ねるといつの間にかとんでもないモノになるとはかのイチローも申してるから信じてみる。

余談だが横浜のとある修道院は生涯クチをきかぬという修業があるそうだ。史実のイエスは割と多弁な男だったようだが、何処をどうやったら多弁な男が広めた宗教からそういう修業が出てきたのかはよくわからん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?