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【後半】元日、能登半島に観光に行き、地震から奇跡の生還をした話


この話は、旅行者として元旦に能登半島に行き、能登半島地震に巻き込まれながら、徒歩で脱出・奇跡的に翌々日に東京に帰還したという友人の体験談です。

この記事は後半(地震が起きたところ)からのみ記載しています

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令和6年能登半島地震 被災体験レポート

(後半からの内容になります)
 
 道の駅千枚田ポケットパークに車を停め、一通り散策を済ませ道の駅の軽食コーナーで名物のおにぎりを頬張っていたところ、その瞬間は訪れました。令和6年1月1日16時10分、後に令和6年能登半島地震と命名されるその揺れが始まったのでした。

 振り返ってみると、マグニチュード7.6の本震の前にほんの一瞬の大きな揺れがありました。本当に一瞬。体感では10秒にも満たない大きな縦揺れでした。一瞬ヒヤッとしたものの、すぐに収まったのでその場にいた我々も、おにぎりを握るおばさん達も、「びっくりしたねー」などと言いつつそのまま何事もなかったかのように食事を続け、また職務を続けていました。

 が、それから数秒だったか、数分だったか定かではありませんが(記録としては4分 後)、間違いなくこれまでに体験したことがない巨大な揺れ、横揺れが襲ってきました。東 日本大震災のときに味わった(埼玉県北部)揺れより、言うまでもなく、比べるまでもない 大きな揺れでした。幸いその時にいた軽食の食堂は倒れてくるような棚や落ちてきそうな照 明などはありませんでしたが、このクラスの揺れになると、人間にできることなんて何もありません。避難の為の移動はおろか立っていることさえで きず、身を低くしてただただ揺れが収まるのを祈るのみで す。

 揺れが収まると、店員さん達が店外に出るよう呼びかけていました。ふと我に返ったように外に出ると、駐車場では小さな子が泣き叫び、他の観光客も多くが地面にしゃがま込んでいました。都市部ではない為阿鼻叫喚の地獄絵図といったことはなかったものの、 騒然としていたことは間違いありません。そして、駐車場の地面は至る所でアスファルトの 地割れが起き、場所によっては50cmほどの段差が出来ています。千枚田は崩落といった程 の被害はないようでしたが、ところどころ大きな亀裂が入っていることが、遠目にも確認できました。
 
 その日の宿までは道の駅から10km、15分程度の場所でしたが、当然受け入れ体制など 整うはずもなく、宿泊は断念。かといってもう日が沈み始める時刻の為、道路状況や津波の 状況も読めないなか動くことは極めて危険を伴います。ここは一旦、車中泊にて夜を明かすことを決断しました。

 念の為、日が沈む前に輪島方面に少し車を走らせて状況を確認します。私の愛車は悪路の 走破性に優れており、ある程度のひび割れや隆起なんて問題ないだろう。あとはスコップの
一本でも調達できれば万全だ___
 
 などと考えていた私は、すぐさま自分の愚かさと自然の力の壮大さに打ちのめされることになります。輪島方面に 数百メートル進んだところで、いきなり通行不能とひと目でわかる地面の隆起に出会いました。一旦そこで車を停 め、徒歩にてその先の状況を確認します。すると、さらに 絶望的な状況を目の当たりにしました。
 

 地面の割れ、というより断層が至る所にあり、キャタピラーでもついていない限りは車両が進むことは絶望的な道路状況となっていました。また、さらにその先まで見てきた人の話だと、橋が崩落しているとのこと。もはや絶望。
一度道の駅に戻り、夜を明かした後、もう一つのルート、つまり輪島とは反対方向を調べることしました。ただし、輪島と反対方向とは内陸から離れる方向であり、極めて薄い望みといえるでしょう。

 ガソリン残量は6割程度。一晩過ごすには十分ですが、万一を考えて深夜冷え込みが増す 時間帯まではエンジンをかけずに節約をします。水も電気も使えない為トイレは少々難儀し ましたが、道の駅のトイレを使用する際、持っていたライトが活躍してくれました。千枚田はライトアップのキャンペーン期間中だった為、棚田のライトアップの灯りだけが近辺を照 らしているというなんとも表現し辛い状況でした。ライトは自動で点灯・消灯する仕組み だったようで、真夜中には完全に灯りがなくなりさらに今後の不安を煽る形となりました。

 車中にて過ごしている間も、例の緊急地震速報の不気味 なサイレンが幾度となく鳴り響き、何度も車が揺すられま した。ただ、マグニチュード7.6を一度経験すると、それ以外の余震は言葉を選ばず表現すると、まるで”ゆりかご”のように感じられました。津波についても、かなりの高台に いたことと、海が荒れる気配がほとんどなかったことから ラジオで聞こえてくる警報や呼びかけほど恐怖はありませ んでした。

令和6年1月2日

 翌朝、日の出とともに周囲の状況確認を行います。初日 の雨晴海岸での経験から、日の出の時刻(7:05前後)と空が白み始める時刻が正確にわかっていましたので(何が役に立つか本当にわかりません)、すぐさま行動を開始。
 
 まずは灯台ルート(輪島と逆方向)に車を走らせます。 すると、これまた一瞬で(”秒で”とはまさにこのこと)、困難に直面します。100メートルにも満たない場所で地 面の隆起に阻まれ(なんならこれまで目視できていたくら いの距離です)ました。どうにかして隆起を回避するルー トを模索していると、その近辺にいた地元民から衝撃の情報がもたらされました。

「この先には土砂崩れがあるから、行っても通れないよ」

 と。これで、輪島ルートも灯台ルートも完全に塞がれたことが判明しました。この時点で 車での帰還は消滅。車を乗り捨てて徒歩にて輪島を目指すことを決断しました。この決断の 速さは運命の転換点だったと言えるでしょう。

 輪島に行ったところでどうなる?という疑念こそありましたが、かといってこのまま道の 駅にいても、ガソリンがなくなる。携帯の電池もなくなる。ライトも灯かなくなる。食糧も 水もなくなる。ジリ貧。冷静に考えれば至極当然の思考ですが、あの状況で、それが即座に 判断できたのはやはりアラフィフ4名によるオトナの旅だったからでしょうか。

 輪島へ向かう道中、横浜から観光に来ているご家族(お父さん、娘さん、息子さん)3人と、一緒に向かうこととなりました。息子さん曰く、こういう時は大人数の方がいい。助け合った方がいい。この息子さん(おそらく小学校中学年)はその後も、海上の船を見てはあれは自衛隊の護衛艦だとか、空を見て救護ヘリだとか、と にかく賢い子だなあと印象深かったです。

 ボロボロに崩れた道路を進む中、また不吉な情報を地元民から伝えられます。

「この先の道が完全に土砂で塞がっていて、通るためには崖を20メートルほど下って、海岸沿いの歩を進まなければならない」

 と。不安ではありましたが、歩みを止めるわけにもいきません。この目で確認することに。先に進むと、事実道路沿いの民宿を押し潰す形で土砂崩れが発生しており、完全に道路が寸断されていました。ただ、海岸沿いの歩道に降りる崖はそれほど急勾配ではなく、這いつくばって慎重に進めば、下ることが可能でした。海岸沿いの歩道から再び車道に出ると、輪島の街はすぐそこでした。少しの安堵感を感じましたが、またしても一瞬でその思いも吹き飛びます。

 これまでは民家もほとんどなく、道路の損害や土砂崩れの様子ばかり目にしましたが、やはり輪島の街は山間部とはわけが違います。倒壊した家屋や、ガレージで押し潰さ れた車そして報道でよく目にすることとなる、横倒しに なったビルなど、とても現実とは思えない光景が広がって いました。木造の住宅については、ほぼ全てが倒壊か、倒 壊しなくても傾いているという状態でした。街の火災につ いては、実際に目にすることがありませんでしたが、後に 報道で知って絶句しました。朝市のメイン通りや永井豪記念館は前日に見ていただけになんともいたたまれない気持ちになりました。

 横浜のご家族とは、ふれあい健康センターにお母さんが待っているとのことで別れ、我々は避難所となっている輪島市役所に向かいました。千枚田から輪島市役所まで約10km、約2時間の道のりでした。情報によると市役所にはまだ救援物資が届かないとのこと。水も食料も毛布もありません。

 ここでも我々は迅速な決断をすることに。ここで一夜を明かすことは可能だけど、物資は 来ないし、何よりこれまで見てきた道路状況だと、復旧や支援は望めない。時刻はまだ午前 11時。進めるところまで進もう。今から辿り着けそうな避難所は、約22km離れた穴水町公民館。所要時間約5時間。
 
 この時点で我々の中ではおぼろげながら、徒歩による能登半島脱出の青写真が描かれていました。避難所を渡り歩いて七尾あるいは氷見くらいまで行けば、交通機関が復活するだろうか。体力的に可能だろうか。ただこの場に留まっても得られるものは少ない。硬い床で一夜を明かすことは相当に身体に負担がかかる。

 市役所に滞在したのはわずか30分にも満たず、出立しました。携帯の電波は途切れ途切 れでしたが、幸い県道1号線一本で穴水町には行ける為、ルートに迷うといったことはあり ませんでした。再びあちこちボロボロになった道路を歩み始めます。

 車で移動すれば40分弱の道のりも、徒歩で進めば5時 間。文明の利器の有り難みも感じつつ、一方で大きな段差 や落石、土砂崩れの前では車も役立たず。徒歩はある意味 無敵ではある。などと色々考えを巡らせつつ歩みを進めま す。穴水までのルートは徒歩でも進めないような道路の寸 断はなく、時々現れる土砂崩れをなんとか迂回しつつ進みます。

 途中、晩酌用に買い込んでいたおつまみやスナック菓子 を補給する。ジャーキーなんかは保存も効くし、ゆっくり 噛みながら味わえるから、非常食にもってこいだな、など と考えながら食しました。自動販売機は全滅、ガソリンス タンドも全て閉まっていて、コンビニもファミリーマート 一件を除いて全て閉まっていました。開いていたファミリーマートも、住民でごった返しており、食糧、飲料は当 然残っていません。お酒はほとんど棚に残っていて、床に も散乱していましたが、誰も手をつけていないようでし た。水分については、地震発生前に購入していたペットボ トルがあったので、枯渇するといったことはありませんでした。

 午後4時頃、穴水の街に入る。ずっと緑に囲まれた山道を歩いてきたので、民家が増えた ことで安堵感が増します。日が暮れる前に来られて良かった。 が、公民館まではまだ30分 ほどかかります。ここで、支援物資を配布している消防署を見つけました。スナック菓子や飴、チョコレートやカップラーメンがたくさん並べられており、好きなだけ持って行っていいとのこと。穴水の公民館 ではそれほど物資が充実してなかったので、ここで補給できたことは結構大きなポイントでした。それにしても皆さん 必要最小限な分だけ持って行き、秩序を乱すことがないの は、さすがは我が国ニッポンだな、と改めて噛み締めるのでした。

 午後4時30分穴水公民館に到着。穴水の街も道路はボロボロ、信号機も消灯していて、輪島ほどではないものの、相 当な被害を受けていることはわかりました。鉄道の始点で もありましたが、当然動いていません。この日はここで避難民として一夜を明かすことに。ペットボトルの水、パン、 毛布の支給は受けられました。車中泊した時も感じていましたが、この季節は午後5時には 日が沈み、日の出は午前7時過ぎ。13時間以上も動けないというのは相当なストレスにな ります。暖房もなく、灯りもほぼない。電波も当然ない。かといって硬い床にちょっとした マットを敷いただけでまるで寝付けない。地元の避難民が大声で話したり、赤ん坊が泣き喚いたり。また、非常電源か発電機の音かわかりませんが、常にゴォーという機械音がしていた気がします。

 避難所の生活というのをリアルに体験しました。いや、体験というか避難民そのものなん ですけど。トイレについても、到着した当初はまだ避難所として稼働して間もないこともあり、水こそ流れないものの普通に使えましたが、時間の経 過とともに瞬く間に異臭を放つようになります。水の流れな い水洗トイレの現実です。避難民となってからトイレの大の ほうは一度も出なかった為、そちらについては分かりませんが、やはり大変なのではないでしょうか。
 
 腰痛&頚椎症持ちの為、床での雑魚寝は苦痛そのものです。同じ体勢で長時間いることはできないので、寝られたの は体感として4時間弱だった気がします。これほど長い夜な のに。寝転がらずに、椅子に座った体勢で寝入っている人が相当数いましたが、そういった事情なのかな、と感じました。座ったままのほうが楽なのだろうか。試しはしませ んでしたが、避難所生活も長くなると私もそうなっていた のかも知れません。


令和6年1月3日


  7時30分起床。この日は、七尾市の田鶴浜地区にあるコ ミュニティセンターを目標にすることを前日に決めていました。道のりは24km、徒歩約5時間。前日が千枚田から通算 すると32km7時間半を踏破していることを考えれば容易いように思えますが、蓄積した疲労や脚のダメージを考えると そう単純ではありません。何しろ、七尾まで辿り着いたとし て、その次の日に氷見まで行き着く為には30km7時間を要 する計算となっているのです。可能な限り歩を進めたいところです。

 もう一泊穴水に滞在するという選択肢は、微塵もありませ んでした。当然1日2日で状況が改善するわけもなく、むし ろ身体を動かさないほうが身体に良くないという思いもあり ました。

 七尾に向けて歩を進めましたが、程なくして雨が降ってき ました。しかも、輪島と比較して車の交通量が段違いに多 い。10倍20倍・・いや大げさじゃなく100倍?そもそ も輪島は道路が寸断されていて車自体あまり見かけませんで したから。しかもこの日のルート国道249号は県道1号と違い、歩道がなく外側は腰高程 度の低い壁と、その先は海。すぐ側を車が通過し、水しぶきも全身に浴びるのを避けようも ない。そもそも徒歩で移動してる人間なんて自分達以外には存在しない。これは・・轢かれ るんじゃないか?

___詰んだ!

 という空気が我々を襲った瞬間にそれはやってきました。 路肩にハザードを焚いて停車する一台の車。ランドクルーザープラドという印字。

 ウィンドウが開いて、運転席に座ったナイスミドルが話しかけてきます。「どこまで行き たいの?え?七尾?氷見?なんなら高岡?・・・いや、金沢でよかったら乗っけてってあげるよ」
 
 いい意味で耳を疑う我ら避難民一行。金沢から新幹線が動いているという情報は得ていたものの、輪島から金沢までの距離は100km超の為選択肢から外れていました。私の拙い語彙力では表現が見当たりませんが、地獄に仏、闇夜の灯火、干天の慈雨。神!などというのはもはや失礼に値します。

 アラフィフ4人がヒッチハイクなんて、しかもこんな状況では無理だろう。自分が乗せる立場でも嫌だ。怖いわ。 なんて話を道中もしており、個人的に言えば、歩行不能に なった人間からひとりずつヒッチハイクで乗せてもらっ て、どこかで落ち合う手かなあ。なんてなんとなく思考を 巡らせていたところで、救いの手は差し伸べられました。

 聞くところによると、このランクルのドライバーさんは 金沢に住んでおり、救助隊やボランティアではなく、個人 として友人のために輪島まで物資を届けてきた帰り道だとのこと。資材は全部下ろしてきた し、ただ帰るだけなので声をかけた。まさかとは思いつつ、駅から逆方向に歩いてるから、 徒歩で別の街に向かっているんじゃないかと思った。他に歩いてる人間なんて全くいなかった。といったことを教えてくれました。
 
 金沢への道中、明らかに徒歩では危険極まりない箇所を幾度も通過。土砂崩れを車1台 やっと通れるくらい最低限切り拓いた道もありました。こんな場所を徒歩で通過したらずぶ 濡れじゃ済まないだろうな。轢かれないか気が気じゃないだろうな。寒いだろうな。いまご ろ脚痛いだろうな。休憩できる場所もないじゃないか。色々なことを考えずにはいられません。

 羽咋市(はくいし)というところにある、柳田インターチェンジから高速道路も乗れるということで、そこから金沢まではだいぶ被害も無くなっ てきていました。歩いたら何日かかるか想像もできない 距離をランクルは2時間かそこらで走破してしまいまし た。金沢の街は同じ石川県とは思えないくらい、正常に 街は機能していました。非日常から日常への変化があまりに速く、なかなか理解が追いつきません。元日から考えればなおさらです。

 ドライバーさんとは金沢駅でお別れしました。名刺でも貰って、後日東京から感謝の贈り物をすればよかった な、と今にして思います。被災したのが月曜日でしたの で、今週中には帰れるだろうか。と思案していたことか ら考えれば、三が日のうちに帰れるとは思ってもみませんでした。

 金沢駅にて昼食を取りつつ、新幹線で帰ることになった為お酒も飲めました。いまでも避難所で辛い思いをしている人や、未だ救助を待っている人などのことを考えると、素直に喜んでいいのだろうか、と考えることもありましたが、単なるイチ観光客である身としては、能登の人たちにしてあげられることも、また少ないと言えます。ささやかな募金を行なったり、復興の暁にはまた観光客として訪れることも、せめてもの貢献になるので しょうか。まずは現地に残してきたマイカー(民家や施設、復興の妨げにならないよう、置いてくる場所は慎重に選びました)を道路状況が改善次第、早急に回収しに行くことは必須ではあります。

 新幹線に乗車してからは3時間。宿で飲む予定だった日本酒をあけながら、いろいろなことに思いを馳せながら帰路に着きました。何かひとつでも選択を誤ったら、この状況にはなかっただろうな。そもそも、和倉温泉で足湯に立ち寄らなければ、そこでの温泉も入らず、結果的に能登半島の最北端に到着していたはずです。そこでもし被災していたらなら、完全に脱出不可能でした。仮に同じように歩く決断をしていても、その労力は想像だにできなかったでしょう。今回無事に帰還できたのも選択が迅速・適切だったこともあるが、完全に運が良かっただけという事実も否定してはなりません。”人事を尽くして天命を待つ”そういえば、私の座右の銘だったな。今回ほど身に染みたのは初めてですけれど。       



あとがき


 学生の時分より、文章を書くのが好きで日常における体験談(主にトラブル)や旅行記を手 記というか小説風にしたためることを、ちょっとした趣味にしてきました。中でも大学時代 のアルバイトの体験談は(未完ではありますが)、わりと友人から好評をいただきました。

 今回の出来事は自分の人生においてもおそらく最大級の体験となったように思いましたの で、文章にしたためた次第であります。もちろん好きなだけで文章の書き方も素人そのもの ですが、実体験に基づいた(多少の脚色はありますが...)ものでありリアリティはそれなりにあるのではないかと、勝手ながら自負しております。

 最後になりますが、旅先で親切にしていただいた能登の皆さん、おにぎりを握ってくれた お母さん、避難誘導していただいた店員さん、道路の状況をつぶさに教えてくれた地元の 方々、道中一緒に歩いてくれた横浜の家族の皆さん、避難所の皆さん、毛布を分けてくれた おばあさん、ランクルのドライバーさん、そして私の拙い文章を最後まで読んでくれた方に 感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
 
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