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急性骨髄性白血病との8ヶ月に及ぶ暮らしから見えた景色

<第一章> 〜その日〜

 <はじめに>
この記事は僕の実体験です。半分は今、この病気に苦しんでいる人へ、もう半分は自分の記録のために書いていますが、自己満足です。僕は医者でも医学生でもないから、自分のかかった病気について、医学的に説明できないし、するつもりは無いです。たまに記憶の脚色も入ると思います。

 もし、それでもよければ、どうぞ。

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 「自分の病気の事を書いておこう!」
 ふと、そう思った。だが、どこから書けばいいのか迷ったので、大まかな時系列を書いておく。今は白血病になってから約3年の月日が流れた。入院していたのは、2018年の2月から10月の8ヶ月間だった。

 今では白血病だった事なんか無いくらい日々働き、食べ、寝て、遊んでいる。入院する前もそうだった。

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体の異変に気づいたのは、1月半ばくらいだったと思う。直ぐ疲れるようになり、坂道や階段を5歩くらい登ると、長距離走をやった後のように息が切れた。登下校の時なんかは、友達も一緒になってゆっくり(ほぼ止まってるぐらいゆっくり)歩いてくれたが、それでもキツくて、前屈みになり息を荒げて歩いた。でも直ぐに息は元に戻ったし、平坦な道は普通に歩けた。
 
 運動はもともと苦手だったから、
「少し疲れたな〜、おかしいな〜、筋トレサボったからかなー」
ぐらいにしか感じていなかった。
 
 不思議な事といえば、その頃健康法に少しハマっていて、食べ物や睡眠には気をつけ、運動もする様に心掛けていた。が、体力は徐々に減っていき、筋トレや十分過ぎる睡眠の効果は全く無かった(笑)。

 ここまで来ると、流石に自分も家族も違和感を覚えて、病院に行くことになった。インフルの時期だったから、それに近い病気だと思っていたが、かかりつけの病院で血液検査の結果、もっと大きい病院での検査が直ぐ決まった。

当時、高校2年生だった。

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 検査の後、僕は入院することになっていて、そのまま病室に向った。ベッドの横や入り口に「腫瘍」の文字が書かれていて、「ああ、こりゃ癌だな」と察しがついた。「終わったかもな〜」とも思った。主治医の先生の説明があるまで、病室で待ったけど、どれくらい待ったか、何をしたのか覚えてない。頭の中は、何も分からない、先が見えない不安が9割。溜まっていた課題を、放棄出来る安心が1割だった。
 
 看護師さんに案内されて入った室内には、主治医と両親が向き合って座っていた。驚いたことに、母だけでなく、父までも目に涙を浮かべていた。
不安ではあったけど、事態を深刻に考えていなかった自分からすれば、ショッキングな光景で、
一瞬、唖然とした。

「なんで泣いてるの?」

そう思った。

ちょっと考えれば、当たり前のことだったけど、その時は訳が分からなかった。

 主治医の先生によると、僕の罹った病気は「急性骨髄性白血病」と言う癌の一種だそうで、今は医療の発展により、寛解まで殆どの人が行けるものと言う事だった。聞けば、上手くいくと、約6ヶ月程で退院出来るそうで、これなら受験には影響しないだろうし、ずっとベットの上にいる訳だから、勉強なんか楽勝だと思っていた。
 その後はあまり覚えてないけど、次の日にさらに検査をして(初日だけでもかなり検査をしたが)、
抗がん剤を使った治療をする事。抗がん剤の副作用(吐き気や脱毛など...)の説明。注意事項など聞いたと思う。治るならそれでいいと思っていた僕は、一通り説明を受けて、病室にさっさと帰った。この重っ苦しい空気をこれ以上吸って居るのはやだったし、ここからは両親の仕事だと思った。僕が居ると、聞きづらい事もあるだろう。
 最後までなんで泣いていたのか、いまいち分からなかった。ただの愚鈍で贅沢な恩知らずだ。多分今もそれ程変わっていない。病院内では万一の転倒に備えて車椅子で移動していたが、身体はなんとも無かったから、妙に居心地が悪かった。

 
               
                  第一章終

                 みたにノ日常

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