自由帳からはじまるフリーダム。

「自由帳って、自由になんでも描いていいから自由なんだ。」
と、思ったかどうかは定かではないが、小学校の時購買で手に入れたまっさらな自由帳は、休み時間のおともだった。
真っ白な紙にクーピーを使って絵を描いたり、
あるいは好きなことや思いついたことをなんでもメモにして、字に書き置いて残したり。
まっさらな紙に自分の世界を作り上げ、自分の理想の町を作り、やがて国となり、謎の独自言語を作ったことだってある。
まっ平らな公園には、自由に走ったり、地面に丸を描いてケンケンをしたり、ボールで遊んだりした。
公園にはいくつかの遊具があって、ブランコが特にお気に入りだった。

自由に想像するのが好きだ。だから、いろんなことを体験したい。
別に身近なことでもいい。生活は身近の積み重ねだから。

決まったセオリーがあるものがある。でも、その上で自由さを求めたほうがいいものだってある。
ただ、崩してアレンジしてもいいセオリーと、崩すと根本が崩れてしまうセオリーがある。それは見分けないといけない。
その基本あってこその自由、なのかもしれない。

若いときはとにかく、いろんなところに行って、いろんな人と会話する。それが大事。
意見が異なることは当たり前。時には、違う意見を取り入れることも必要。
でも流されないように自分の意見を確認するときも必要。
自分で道を切り開く力が必要だから。

自由とは難しいものである。だからこそある程度の枠も必要。そのうえで自由をやる。
一度巨大な紙で絵を描きたいと思ったことはあった。でも紙が大きすぎると持ち歩きにくい上に収拾がつかなくなる。だから紙のサイズをある程度決めて、持ち歩ける分に絞ったうえで自由にやる、ということが重要なんだなと。

なんでも自由という建前を掲げながら、「これはダメだ」というのを決めるのは本来良くない。組織の黎明期はそうなりがちだから、その都度ベースとなるルールを見直して自由を成立してきた。
やっぱり基本となるルールの上での自由を作るべきであって、元々の自然にある自由の内側にあるルールというのは本来厄介者扱いされがちなのだ。
故に、自由であるべき場所とルールに縛られるべき場所ですらそれぞれ異なるのである。

でも、元をたどれば、最初はまっさらな状態から始まったのだ。行き詰ったら白紙に近い状態に戻してから再出発してもよい。
でも、その「白紙」は本当に白紙なのだろうか?

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