映画『虚空門 GATE』はなぜあそこまで面白いのか

 図らずも、なんかいつも文句ばっかり言ってる気がするのでたまにはひたすら褒めるだけの記事を書きます。

 『虚空門 GATE』という、ありえないくらい面白い映画をご存知だろうか。ご存知じゃなかったらこんな駄文読んでないでアマプラでも何でもいいから今すぐ見てほしい。話はそれからだ。




 はい、見ましたね? もうここからは見た前提で書きますよ。

 



 
 この映画は、「監督が庄司哲郎を問い詰める場面」で終わっても別に良かった筈である。それはそれで、単に我々観客の嗜虐心を満たす、ファストフード的で下世話な面白映画としては確実に成功していただろう。しかし本作はさらにその先を描く。
 インチキ疑惑について問い詰められている庄司哲郎を目の当たりにした庄司の彼女・林泰子がどんな反応をするのかと思ったら、まるでイタズラした子供を宥めるような、どこか慈愛に満ちた表情で庄司を見つめており、映画はその後、二人の結婚式の場面に移っていく。その中で、林の「あの人は私がいないとダメなんです」というインタビューが挿入される。
 ここに至って観客(少なくとも私)は、人間が持つ理屈を超えた無償の愛のようなものに触れ、感動し、直前まで味わっていた悪趣味な面白さとは真逆の面白さを感じることになるのである。この、正反対の二つの面白さを短期間に浴びせられる体験というのは、私にはこれが初めてだった。

 私は本作を昨年の新文芸坐で見たのだが、その上映後に行われたトークショーにおいて、監督の小路谷秀樹氏が以下のようなことを言っていた(細かい文言は正確ではないと思うが、論旨は合っている筈である)。

 「映画を見ただけでは、何故あの大家さんが庄司哲郎に対して、単なる大家さんという立場を超えた関わり方・振る舞いをするのか分からないかも知れない。実は、庄司が19歳の頃に彼のラーメン屋にバイトで入ってきた時からの付き合いである、ということを大家さん自ら口にしたことが取材中に一度だけあったのだが、その時たまたまカメラを持っていなかったので撮れなかった

 私は監督のこの発言に、本作のドキュメンタリー映画としての姿勢の正しさを感じる。つまり、「観客が見ていて疑問に思うレベルで不足している情報があったとしても、それをナレーションやテロップで説明したり、ましてや取材対象にカメラの前で同じことをもう一度喋らせるということはしない」という方針である。

 とは言え私は鑑賞中、大家さんが庄司哲郎について「あいつは昔からああだから」という意味のことをボソッと漏らす場面で、あの二人の関係を何となくは察することができた。情報は少ないが、全く無い訳でもない。洞察と想像で不足部分を補えるだけのヒントは十分に散りばめられているのだ。

 そういえば本作では、上記の場面に限らず、特にドキュメンタリーの常套手段であるナレーションは一切使われていない。テロップも冒頭と、庄司哲郎が現場に現れなかったことを示す二箇所という最低限でしか使われていない。しかし、頑張って集中して見ればギリギリ理解できるようには作られている。こうした情報量の絶妙な抑制は、我々見る側に対し、強制的に集中力(=観るモチベーション)を維持させ続けるという効果を促しているように思えるのである。

 またこうした「不足している情報があっても無理に説明しない」「ナレーションやテロップを(極力)入れない」という方針からは、「あくまでカメラがその時に捉えた映像と音声が全てである」という監督の考えも窺える。つまり、カメラは偶然その場で起きた出来事を記録する役割に徹し、編集段階でそれらの出来事に対する監督の考えを反映させるということを意図的にせず、完成した作品はひたすら実際に起きた出来事を中立の立場で示し続け、それに対する意見や感想は観客に100%委ねられているのだ。もちろん、こういう作り方で面白いドキュメンタリーにするには、起こっている出来事自体が面白くないといけない、という前提条件はあるが、この『虚空門 GATE』の面白さは、作中で起こる出来事の面白さだけに起因するものではなく、出来事の面白さを最大限に活かすため、あえてそれに対する作者の意図を入れない、という撮影や編集の方針が出来事自体の面白さとバッチリ噛み合っているため、とも言えるのではないだろうか。まるでキング・クリムゾンの即興曲「トリオ」にて、「『あえて何もしない(=演奏に参加しない)』ということをした」ことで曲に貢献したとロバート・フリップに判断され、作曲のクレジットに名を連ねたビル・ブルーフォードさながらの抑制っぷりである。

 あと関係ないが、作中で小路谷監督が庄司哲郎にイカサマ疑惑について問い詰める場面について、上記のトークショーで監督が「編集をやってくれた子があのシーンを編集しながら爆笑していた意味が全く分からなかった」という意味のことを言っていたのが非常に印象的だった。流石にマジで言っているのか少し疑わしかったが、こういう感覚の持ち主だからこそ、起こっている出来事に対して(少なくとも表面上は)中立な立場の作品を作ることができたのかも知れない。


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