『けいおん!』6話に納得できない

 最近、自分が世間で言うところの名作をぜんぜん見ていないことに自覚的になり、意識して色々見ている。この間もCSのTBSチャンネルでアニメ『けいおん!』を放送していたので、それを録画して見ていた。今のところお話はまあ普通だが、アニメの動きとかアングルとか、そいう演出面が素敵だなあと思いながら見進めていた。そして私は主人公ら四人のバンドが初めて人前で演奏する文化祭回、第6話に差し掛かった。

〜6話のあらすじ〜

 主人公でギターの平沢唯が練習のしすぎで喉を潰したため、文化祭のライブでは急遽、ベースの秋山澪が歌を担当することになった。秋山の必死の努力でライブは無事成功するが、直後にシールドに足を引っ掛けてコケた秋山は観客全員にパンツを晒したのであった。

〜あらすじ終わり〜

 「は?」である。

 私はこの6話を見終わった時、手足が震え全身の血が逆流し心臓が締め付けられ涙が止まらなかった。

 しかし待ってくれ。俺は断じて世に蔓延る、「歪んだ方向に思想が伸びきった『あの方々』」とは違う。"They"であれば「パンツ」という一単語が出た時点で激昂するだろう。でも俺は違う

 ハッキリ言おうか。俺は「秋山澪のパンツが見たいか?」と聞かれたら「見たい」と答える。
 しかし、「せっかく頑張って練習してライブを成功させたのに、直後にコケて観客全員にパンツを見られたことで文化祭の思い出が台無しになった秋山澪が見たいか?」と聞かれたら「見たくない」のである。

 だから別に、ここで起こる「事故」は、別のことに置き換えて考えてもいい。
 例えば「ライブ直前に階段から転げ落ちて腕を骨折したので演奏できませんでした」でも、「終演後に片付けようとベースを触ったら感電死しました」でもいい(良くはないが)。とにかく「何か障害を前にしたキャラが自らの努力でそれを乗り越えたのに、本人の意志とは全く関わりのない偶発的な事故によってその思い出が台無しになりました」という展開にする意味が全く分からないのである。

 だから逆に言えば、本人にとってその「事故」が大したダメージでないのならそれでもいい。
 例えば「パンツを見られて露出狂に目覚めました」とかいう展開ならまあいいし、あるいは秋山澪本人が「パンツは見られたけど全体的にはまあ楽しかったよね」という姿勢ならそれもギリ許せる(だからアニメにありがちなシャワーシーンやら温泉回は、そこに本来他者の視線が無い場所にカメラが侵入しているだけなのでそもそもダメージが発生しておらず、そういう理論で言えば全く問題はない。なので俺は見る)。
 
 しかし、文化祭翌日の秋山澪は、ライブそのものの話をする余裕すら全くないほど精神的に疲弊しているかのように描写されている。先ほどから書いている「思い出が台無しになる」という表現はここから来ている。少なくとも私にはそうなっているように見えた。
 「ギャグ描写に何をマジになっているのか」という人がいるかもしれないが、その回全体、いやさ、少なくともそのくだり全体がギャグならまだしも、それまで極めて真面目な話をしていたのに、それと直結する流れで突然こういう類のギャグに転換してオチに持っていくのはやはりこれは極めて不誠実なのであるからして、その指摘は当たらない(政治家)。

 それからこのシーンにおける、バンドの他の三人(と顧問の山中さわ子を入れた四人)の態度も何かなぁである。秋山澪ただ一人がバチボコに凹んでいる中、田井中律が前日のライブについて好意的な感想を述べ、「四捨五入したら全体としては良かったよね」というムードでその回が終了する。

 このシーンを見ながら、私は『けものフレンズ』の11話でも似たようなくだりがあるのを思い出した。
 以下はラスボスの巨大セルリアンを倒すべく作戦会議をするかばん、サーバル、アライグマ、フェネック、ヒグマ、キンシコウ、リカオンの会話の抜粋である。


アライグマ「さらにカバンさんに加えてアライさんまで! 無敵の布陣なのだ!」

ヒグマ「え、お前特技ってあるのかー?」

フェネック「明後日の方向に全力疾走ができるよー」

ヒグマ「大丈夫かー、それー?」

一同「あはははは!」

 私は「2017年1月より3月までテレビ東京ほかで放送された」アニメ『けものフレンズ』がかなり好きなのだが、上記の一連のやり取りは、この作品の中でほとんど唯一の「らしくない」場面だと思っている。

 というのも、見たら分かる通りこれはアライさんがフェネックに平たく言えばイジられているというやり取りなのだが、最後に一同が「あはははは!」と笑うカットで、発言の対象であるアライグマと発言者のフェネックの二人だけ顔が映っていないのである。しかも、フェネックは他のキャラと同じように肩を震わせていて笑っているのが分かるのに対し、アライグマの背中は微動だにしていない
 これは完全な妄想だが、私はたつき監督がどうしてもこのシーンのオチだけは思いつかなくて、こういう展開にせざるを得なかったのではないかと思っている。そういう後ろめたさがあるから、イジられているアライさんの顔が映っていないのではないか。

 先ほどからチラホラ「オチ」という言葉が出ているが、フィクションにおいてこういった場面が発生してしまう原因はこれにある。上にも少し書いた通り、「オチが思いつかなくて誰かが痛い目に遭う展開にするが、でも話そのものをマイナス方向に持っていく意図は無いので、全体としては何となくプラスのムードが維持されたままその場が流れていく」のである。
 そしてやはり、私はこの「話やシーンのオチのために誰か一人のキャラに皺寄せが行くが、でも他のキャラには皺寄せが行っていないので、四捨五入したら何となく『良かったね』みたいな雰囲気になる」という、これが受け入れられないのだ、という結論にどうしてもなってしまう。自分もこれまでに趣味で書いた脚本で、オチに困ってそういう展開にしたことが一度でも無かったか、と言われたらちょっと分からないが、そういうやり方でしか付けられないオチって必要なんだろうか、というのは暴論だろうか。

 あと別に「キャラが理不尽な目に遭う話を作るな」と言っている訳でもない。フィクションの登場人物は理不尽な目に遭うのが常である。しかし、そうした挫折からトラウマの克服に至るは、それを話の主軸に据えて、最低でもアニメなら1話、下手したらそのクール全部を使ってもいいくらいなものを、このレベルの(というのは客観的にどうこうではなく、秋山澪の主観として)大事故を単なる1エピソードのオチに持ってきていいとは、やはりどうしても思えない。ここまで書いておいて何だが、別に視聴をやめるほど憤っている訳でもないのでこの続きも見るんですけどね。

 


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