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【ショートショート】トイレの神様


「くさい・・・・・・」

一月一日の朝、一人暮らしのアパートのトイレの扉を開けた俺は、思わず言った。まさか新年最初がこんな言葉からスタートするとは考えてもいなかった。少なくとも数時間前までは、くさくなかったはずだ・・・・・・
まぁ、もちろんトイレなのだから、ある程度はくさかったのだが、こんな臭いではなかったのは間違いない。俺は鼻につく下水のような臭いに耐えかねて、トイレには入らず、一旦扉を閉めた。

物書きになることを夢見て、上京して早五年。このアパートで迎える正月も五回目だ。今でこそ、少しずつ仕事をもらえるようになってきたとはいえ、それでも収入は安定しない。その上、ワンルームの狭い部屋ではソファベッドが場所を占拠し、寝る場所も仕事をする場所も一緒のような、パッとしない生活をしている。
親戚が集まる年末年始に帰省をする勇気も出ず、一人で迎える正月にも慣れたものだ。しかし、こんなトイレがくさい正月は初めてである。

俺は何とかしなければと思い、スマホを手に取り、トイレの臭いについて検索してみた。どうやら便器の中の水の高さが下がりすぎると、下水の臭いが上がってきてしまうらしい。

なるほど、そういうものか。


俺は鼻をつまみ、トイレの扉を再び開け、便器の中の水の高さを確認してみる。が、いつも通りであった。と自信を持って言いたいところだが、今の今までトイレの水など気にとめたこともなく、確信は持てないところではある。だが普段と明らかな違いがあれば、さすがに分かるはずだろう。おそらく問題はない。


では、一体何なんだ?

俺は首をかしげた。さすがに業者も正月の三が日は休みであり、助けを求めることも難しい。俺はしばらく考え込んだ末に、一つの結論にたどり着く。


一旦流しておけば、時期によくなるだろう。


そのうち何事もなかったかのように、いつものトイレの臭いに戻るかもしれないのだ。自らを勇気づけるかのごとく、俺は大きくうなずいた後、息を吸うのを最小限にしつつ、急いで用を足し、部屋に戻った。


昨夜読んでいた漫画が散乱している床をうまいこと歩き、今は寝床の役割を果たしているソファベッドに横になる。そして、テレビをつけた。
テレビの中は、振り袖を着た芸能人たちで華やいでいるというのに、俺の頭の中は例のトイレの悪臭のことでいっぱいのままであった。


なんせ、俺はトイレにはこだわりがあるのだ。このアパートを決める際に、唯一、譲らなかった条件、それがトイレと風呂が別であることだった。
一人暮らし用のアパートは、トイレと風呂が一緒になっている、いわゆるユニットバスが主流である。しかし、俺はどうもこのユニットバスのトイレが苦手なのだ。迫り来る風呂に、落ち着いて用が足せない性分とでもいうのだろうか・・・・・・
駅からの近さや日当たり、築年数などを差し置いても、トイレと風呂が別であることだけは譲れなかったくらいだ。とはいえ、しばらくテレビを眺めているうちに、頭の中の九割を占めていたトイレのことが少し緩和された。それと同時にお腹がグゥと鳴る。


まだ朝ご飯を食べていなかったことを思い出し、ゴソゴソと立ち上がりキッチンに向かうと、昨晩食べたカップラーメンの汁が残った容器と、今日の朝用に買っておいた菓子パンが俺を迎えた。
おもむろにラーメンのカップの残り汁をシンクに流し、空の容器を再び元の場所に置く。そして、今度はパンの袋を持ち、ついでに冷蔵庫に入っているお茶のペットボトルも取り出し、俺は部屋のベッドに戻った。


テレビの映像が流れゆく中、俺はただ黙々とパンを口へと運んだ。食事の時間はすぐに終わり、冷たいお茶を一気に流し込んだ後、再び横になりテレビを眺める。面白いわけでもなく、されどつまらないわけでもなく、ただ時間だけが過ぎていく。これが正月らしい時間の過ごし方なのである。


そうこうしている間に、俺はうとうとし始め、いつの間にか眠りについていた。どのくらい経っただろうか・・・・・・尿意に襲われた俺は寝ぼけたまま立ち上がり、トイレへと向かった。すると、鼻にツンとくる下水の臭いで一気に現実へと引き戻される。
時間を置いてもトイレの悪臭は消えることなく、その場に居座っているのだ。そして、それは翌日も翌々日も変わらなかった。

俺は何とか解決策はないかと、トイレの掃除をしてみたり、芳香剤を買ってきてみたり・・・・・・と思いつくことを試してみたが、まるで効果はなかった。
トイレの臭いに振り回されている間に、三が日が過ぎていき、いよいよ業者の年始営業が開始する一月四日となった。

俺は営業開始時間と共に業者に電話をし、来訪の約束を取り付ける。数時間後、待ちに待った業者の人がやってきた。かっぷくのよい、おじさんの出で立ちが百戦錬磨の強者に見え、これでようやく解決できると俺は安堵した。が、一通り確認をした業者のおじさんは冷酷にも原因不明だと言い放った。

困惑する俺を横目で見つつ、おじさんはこんな質問をしてきた。
「お客さん、年末の大掃除ってちゃんとしてます?」


掃除をしていないための悪臭とでも言いたいのだろうか・・・・・・それは濡れ衣であることを俺は主張した。
「確かに年末の大掃除はしていなかったのですが、悪臭を感じた後にきちんと掃除はすませましたよ」


すると、おじさんはため息交じりで答えた。
「あー、じゃぁ、それが原因だ」


腑に落ちない顔でいる俺に、おじさんは少々面倒くさそうに続けた。
「お客さんね、トイレには神様がいるってご存じですか?」


どうやらトイレには神様がいて、年末に大掃除をすることで、一年の感謝を伝えることになるらしい。もちろん、一回や二回、大掃除をしないくらいでは神様も怒ることはないが、何年もそんなことが続けば、さすがの神様も怒ってしまう。そして神様が怒った時、下水のような臭いが出るのだそうだ。


キョトンとした表情をする俺を見ながら、おじさんはさらに続けた。
「昔はね、年末になると、家族みんなで大掃除をしたものですが、最近はきちんとやらない人が多くてね、年始はすごく忙しくなるんですよ。困ったものです・・・・・・」


真面目な表情で説き伏せてくるおじさんを前に、俺は所在なさげに解決策はないのか聞いてみた。すると自らの手でトイレ掃除を念入りにした後、トイレの便座の蓋を閉め、おちょこに入れたお酒を蓋の上にお供えするようにと説明された。一晩もすれば臭いは消えるらしい。


おじさんは一通りの説明を終えると、そそくさと帰っていってしまい、俺は一人取り残された。信じがたいことではあるのだが、他に解決策がないのであれば、やってみるしかないのだ。


俺は言われたように、念入りにトイレを掃除し、便座の蓋を閉め、その上におちょこに入れた酒を供えた。


そして、迎えた翌日。いつものトイレが俺を迎えた。どうやっても消えなかったあの悪臭が見る影もなく消えていた。
今年からは年末の大掃除はきちんとやろう。
俺はそう心に誓い、一礼をしてからトイレに入った。


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