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7YEARS -(中編)2012→2017

2012→2014

 2012年の年初めに、延藤研究室の同級生である伊藤孝紀君(名工大教員)から電話をもらった(りぶら103会議室で受け取った)。名古屋工業大学にて文理融合の地域協働センターとでもいうべき、コミュニティ創成教育研究センターの設立が構想されており、特任研究員の公募がある。内容的に三矢君にうってつけなので応募してはどうかとのこと。学生の頃、名古屋工業大学で建築を学んだ身として、母校で働けるというロマンもあり、加えて、超高齢社会のコミュニティに関する課題解決と工学を結びつけるというセンターの構想にも興味をもったことから、これに応募した。無事に採用が決まり、3年任期の特任研究員(特任助教)として、研究活動や教育活動に注力した。  2011年に、りたの自主的な活動(受託事業ではなく)として、昭和の街並みが残る「松應寺横丁」の空家再生プロジェクトに着手(主に天野さんがプロデュース)し、その後2013年あたりから、高齢者の生活支援にも事業の枠組みを拡張している。このように福祉分野への展開ができた背景に、自分が名工大の研究員として高齢社会問題と工学の研究、実践に関わっていたことが実は影響している。
 一方、東京時代から繋がりのある吉村先生(日本福祉大学)には、僕がりたの実践をしている頃から「何かの役に立つかも知れないから」と時折、論文執筆を促して貰っており、特に、リブラの市民参加を巡る論文を2010年にまとめたのは、その後の重要な足掛かりとなった。2012年から2014年の特任研究員の期間に博士論文の執筆を進め、2015年3月、博士号の取得と同時に名工大の研究員を退任した。

2015→2017

 2016年が岡崎市政100周年であったこともあり、2015年にはその事前準備となる企画が続々と始まっていた。そして、そのいくつかをりたが推進役を担うこととなっていた。具体的には「岡崎まちものがたり(47学区すべてに編集委員会を発足し、住民参加で地区の歴史や魅力をまとめる)」「新世紀岡崎チャレンジ100(100 の市民団体、事業者、学生グループ等に上限100万円の活動支援費を出し(総額1億円)、市民参加で市政100周年を祝う)」といった大型プロジェクトがあった。前者は天野さんが主担当、後者は三矢が主担当となり、実務を動かすスタッフも雇用して、その実践に向かった。とてつもなく過酷なプロジェクトであった(専門スタッフをリクルートしたことも、後のりたの組織強化に貢献している)が、岡崎市内全域にネットワークを広げ、それまでにつながっていなかった意欲的な市民団体や事業者の皆さんとのネットワークを広げることともなり、りたが岡崎市内での活動展開の基盤をアップデートする機会ともなった。
 これと同時並行で進んでいたのが乙川リバーフロント地区まちづくりだ。その萌芽は、2014年から始まった(自分が名工大に在籍していた時期に始まったプロジェクトなので、詳細の実務や実態を把握していたわけではない)。このプロジェクトを主担当として関わっていたのが、山田高広君(天野さんの学生時代のバンド仲間/現・三河家守舎社長、森・道・市場プロデューサー)と天野さんであった。ポイントだけ指摘すると、ハード整備偏重の岡崎市の政策展開において、市民参加のフレーム(対話と協働の重要性)を逆提案し、岡崎市の担当課の方々とも苛烈なぶつかり合いもありながら、何とか市民参加、市民自治、公民連携の地平を拓き、後に「Quruwa戦略(岡崎の中心市街地は岡崎城郭の輪郭と相似している。岡崎城の総曲輪を手掛かりとして回遊動線を設定し、各種の公共整備、リノベーションまちづくりの進展、民間投資の誘発)」として結実する大きな都市再生戦略を開発、実践することになっていく。
 僕が、りたに復帰した2015年には、Quruwaまちづくりを巡り、県外からもまちづくりに情熱をもつ若手スタッフが参集し、実務を担当してくれていたため、そうした皆さんに現場を託した。どちらかというと自分は市の中心部ではなく外延部の地区防災計画策定や公園活用、地域包括ケアシステムの構築に力を注いだ(2015→2017)。つづく。

※写真は北斗台団地の古墳公園(北斗台2号公園)。名工大のプロジェクト、およびりたの仕事でも関わらせてもらった。

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