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二十年の片想い 30

 30.
「おはよう、美咲ちゃん」
 その声は、青い空に伸びる一本の白い飛行機雲に、突然もう一本の飛行機雲が現れて急接近したかのように、美咲の耳の奥へ、心の奥へと響いてきた。声の主は、長い足で悠然と歩き、あっという間に美咲の隣に並んだ。はき古した淡いブルーのジーンズに、深いブルーと黒のチェック柄の長袖シャツ。腕が長いため袖が若干短く、左手首にはめた、シャツよりも綺麗な深い青色の文字盤の腕時計がはっきりと見える。右手にはビジネスマンが持つような大きな黒いバッグを肩越しに背中にかけるような形で持っている。
 美咲は努めていつもの声で挨拶を返した。
「おはよう、大野くん」
 朝八時半過ぎ、午前の授業を受けるべく、大学最寄り駅を出て「友情の像」を通り過ぎて少し歩いた辺りだった。歩道に並ぶ街路樹からは、夏にはうるさいほどにこだましていた蝉の声もすっかり消え、静かな秋の訪れを告げていた。
「秋らしくなってきたね。昨日の午後なんか、うろこ雲が出てたし、夜には蟋蟀(こおろぎ)や鈴虫が鳴いてたりして」
 大野の声は、以前と変わりない、落ち着いた、穏やかなものだった。
「そうだね。だいぶ涼しくなってきたね」
 美咲も言葉を返す。
「足、寒くないの?」
 大野が尋ねる。美咲は未だに夏ものの、明るいブラウンのレース風の生地の、フレアーミニのワンピースから、ストッキングをはかない白くまっすぐな足をのぞかせ、花のコサージュのような飾りのついた、ヒールの細いブラウンのサンダルを素足で履いていた。
「足はあんまり寒くないかな。カーディガンだけ羽織って少し秋らしくしたけどね。そろそろ衣替えもしないとね」
 以前と変わらぬ大野の微笑みに、美咲も微笑みで返した。
「新しい彼氏とは、幸せにやってるの?」
 美咲はぴくりとしたが、大野の表情は変わらず穏やかだった。
「まだ日が浅いけど、幸せの予感は十分にする」
 美咲は正直に答えた。恋人の坂本は、昨夜もアルバイトが終わった後に電話をくれて、二時間近くも話し、金曜日の夜に会う約束をしたのだ。
「ならよかった。美咲ちゃんが幸せなら、俺はそれでいい」
「ありがとう」
 大野のやさしい言葉が、深い穏やかな声が、美咲の胸を締めつけた。間違ったことはしていないが、大野を深く傷つけたことは確かだ。
「怒鳴ったりしてごめんね。美咲ちゃんの気持ちも考えず、俺が一方的すぎた」
 大野がやさしく言えば言うほど、言葉の一つ一つが胸にちくりと刺さる。一方的ではないのだ。あの時、高村にふられた直後に、偶然坂本に会いさえしなければ、今頃は大野と腕を組んで歩いていたかもしれないのだ。
「今までどおり、良きクラスメイトとして、良き友人として接してくれれば、それでいい。もう二度と、自分の気持ちを押しつけるようなことは言わないから。あらためてよろしくね」
 どきっとした。自分が高村に言ったのと同じことを、大野も言っている。
「こちらこそ」
 美咲は微笑んで応えた。高村がそうしてくれたように。続けた。
「英語の宿題のコピー、ほんとにありがとう。すごく丁寧に書いてくれて。手紙は……」
「恥ずかしいから燃やしてよ」
「わかった。そうするね」
 そう答えたものの、コピーした紙の束に添えられていた手紙は、大切にとっておきたかった。長くはないが、熱く深い想いがこもったものだった。普段は乱雑な文字を書く大野だが、コピーも手紙も、一文字一文字が丁寧に書かれていた。その文字を見ただけでも、誠実な想いが伝わってきた。
「最初は、あれほど丁寧に訳してくれたのに、大野くんの想いに応えてあげられなくて、すごく申し訳ないような気がして、自分で何ページかやった。けど、結局わからなくて、都合がいいみたいだけど、ずるいけど、参考にさせてもらったよ」
「あれは、美咲ちゃんの好きに使ってくれていいよ」
「大野くん、やっぱり頭いいんだね。あたしの訳とぜんぜん違ってて、あ、ここはこう訳すのかって、勉強になったよ。文章も明確でまとまってたし。すごいね。尊敬するよ」
「俺のほうが間違ってるかもよ。尊敬するのは、美咲ちゃんのフランス語のほうだよ」
「ありがとう。でも大野くんの訳はたぶん、完璧だと思うよ。まるで大野くんが書いた論文みたいだった」
「それは褒めすぎだよ」
「お世辞じゃなくてほんとに。それで……」
 美咲は次の言葉をすぐには出さなかった。
「丸写しは、俺は構わないけど“ハマー”は単位をくれないかもね。一つぐらい落としてもいいや、と思うけど、それがいくつも重なったらシャレになんないしね」
 膨大な量の宿題を課した浜田山という名の教授に、大野は「ハマー」とあだ名をつけていた。美咲は思わずくすっと笑った。大野は私と同じことを考え、高村と同じことを言っていた。
「“ハマー”からそんな仕打ちを受けないように、花枝に見せてあげていいかな?花枝にはほんとに、いろいろ世話になったし、あたしだけがいい思いするのも……」
 美咲はためらいがちに聞いた。
「もちろん構わないよ。大切な友人のためなら」
「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうね。花枝もきっと助かるよ」
「おはよう!あたしがどうしたって?」
 突然後ろから本人の声がした。
「びっくりした。おはよう、花枝」
「おはよう、小谷さん」
「おはよう、大野くん。今日も五時起き?」
 花枝はいつもの、太陽のように明るく照らしてくれるような笑顔で、さらっと言った。
「健康的でしょ?チベットの朝日も最高にきれいだよ」
「チベットはいいところがたくさんあるよね」
「花枝。英語の宿題、一緒にやろうよ。大野くんの論文を参考にしながら」
「いいの?あれは美咲の……」
「美咲ちゃんは、大切な親友のために使いたいって言ってる。俺は構わないよ」
「ありがとう。すごく助かるよ。あたしまだ、ぜんぜんやってなくて」
 花枝は二人から少し離れて後ろを歩いていたのだが、二人が前と変わらず普通に話している様子を確認してから、声をかけた。美咲の心配をよそに、大野は以前と変わっておらず、花枝はほっとした。
「ういーっす。この色男。朝っぱらから両手に花とは、大層なご身分だな」
 今度は後ろから高村の声がした。高村はいつものように、大野を皮肉ったような冗談を言いながらも、さわやかな笑顔を見せていた。
「ういっす。俺はチベットの帝王だからさ。両手には美女が必要ってわけよ」
 大野も、高村に対していつものように、冗談で返した。
「おはよう、高村くん。まだ半袖着てるんだね。寒くないの?」
 美咲は自分から高村に「私なら大丈夫」と目で伝え、笑顔で話しかけた。
「基本、九月いっぱいは半袖だよ。美咲ちゃんだって素足にサンダル。見てるほうが寒いよ」
 高村も「わかった。安心した」と目で伝えながら答えた。
「寒そうな格好のほうが嬉しいくせに」
 大野は、以前と変わらぬ口調で冗談を言った。
「それはお前だろ。このムッツリスケベが。っていうか、クラスのエロ男子十二人、全員かも」
 高村はむきになって言い返した。
「じゃあ、今度へんな電話がかかってきたら、クラスの誰かが犯人ってことだね」
 美咲は全く気にすることなく、二人の男子の冗談も、さらっと受け流す。
「美咲。サービス精神旺盛すぎ。少しは恥じらいってものを感じなさいよ」
 花枝は良きお姉さんのように、叱るような口調で言う。
「だって、着替えも洗濯も、ワンピースが一番楽だよ。上下二枚着るより、一枚のほうがさっと着られるし、すぐに乾くし」
「だったらパジャマでそのまま来ればいいじゃない。着替えることないし」花枝談。
「俺がそうしようかな。コートでも羽織ってくればわかんないよな。柄物ズボンはいてるやつだっているしな。そしたらあと三分は長く寝れる」大野談。
「朝の三分はでかいよな。何気にいい考えかもしんねえな。俺はTシャツにジャージだから、体育会系のやつに見えるだけかも。高校の時だって、ほとんどジャージで……」高村談。
「ちょっとちょっと男子諸君。せっかくの美男二人が、毎日パジャマにジャージで大学来てたら、センスを疑われますわよ」花枝談。
「花枝ちゃんが言い出したんだよ」  
 高村談。
 高村は花枝の少し後ろを歩き、花枝が、前を歩く大野と美咲の様子をうかがっているのが見えた。二人はごく自然に会話をしていた。花枝は声をかけた。少し待ってから、自分も声をかけた。そんな具合だった。そして実際に話してみて、案ずるより産むが易し、立ち直るのに時間がかかると思っていた大野は、以前と変わらぬ口調で、以前と変わらぬ顔で、元気に喋っていた。下手に気を遣う必要はなかったようだ。高村もまた、ほっとした。

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