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二十年の片想い 27

 27.
「秋山さん、どうしたの?」
 楓はぎくっとした。高村の声だった。文学部棟の廊下で、ようやく立っている状態だった。背も丸まっていた。背すじを伸ばせ、笑え、はきはき喋れと、自分を鼓舞した。
「お昼ごはんを買いに行こうと思って」
「よっぽど大野が怖かったみたいだね」
 平静を装ったつもりだったが、高村はくすっと笑い、楓の図星をついた。まさか、その奥までは読まれてはいないだろう。少し不安になったが、楓は笑顔を保った。
「ちょっとびっくりしただけだよ」
「メシならついでに買ってきてあげるよ。何がいい?」
「自分で買いに行くから大丈夫だよ」
「いや、なんか今にも倒れそうだよ。どう見ても大丈夫じゃないよ。今から食堂に行って食ってる暇ないから、俺たちも弁当買って次の授業の教室で食うことにしたんだ。サボっちまいたいけど“バーコードじじい”(教授のあだ名)はうるさいからな。急いで買ってくるから秋山さんも教室へ行きなよ」
「でも……」
 教室へは行かなければならないが、なるべく時間ぎりぎりに入りたかった。おにぎりを買って一人で棟内のロビーで食べて、そして行くつもりだった。
「大野ならもう落ち着いたから。片山もついてるから大丈夫だよ。何がいい?時間ないからさ」
 まっすぐな目と余計な親切に楓は戸惑ったが、頑なに断るのも悪い気がした。
「じゃあ、梅干しのおにぎりと冷たいお茶で……」
「一個でいいの?」
「うん」
「小食だね。わかった。後払いでいいから」
 財布を出しかけた楓に高村はさらっと言うと、廊下を人波を縫うように走っていった。
 早く教室へ行かざるを得なくなってしまった。楓は足を前に踏み出したが、速くは動かなかった。仕方なく、右足、左足、右足、左足と、一歩ずつ床を踏みしめるように歩いた。
「秋山さん、どうしたの?ヘンな歩き方して」
 ぎくっとした。今度は片山の声だった。ということは、大野も一緒にいるはずだ。二人で次の授業の教室へ向かうのだろう。恐る恐る振り向こうとした時、大野は無言で、楓になど目もくれず、スッと楓の横を通り過ぎていった。楓はショックを受けた。無視という、冷たい嵐の爪痕を残して、大野は遙か前方に去っていった。グレーのポロシャツの背中は明らかに不機嫌だった。
「大野。足が長いのはわかるけど、待ってくれよ。じゃあ秋山さん。また教室で」
 片山が慌てて後を追いかけていった。楓は呆然となり、そのまましばらく動けなかった。まるで黒い雲が立ち込め、無視という痛い雨粒が背中に突き刺さるようだった。
 何を落ち込んでいるのだ。何がそんなにショックなのだ。大野など関係ないではないか。楓は歯を食いしばり、涙腺を抑えて、倒れそうな自分に鞭を打った。高村が戻ってくる。先に教室へ行かなければ。楓はよろよろと歩いた。騒がしいロビーを通り抜け、狭いエレベーターに乗り、ようやく教室のある五階にたどり着いた。教室の前まで来て重い扉を開けようとして、一瞬ためらった。
「秋山さん。今着いたの?」
 ぎくっとする間もなく、売店の白いレジ袋を複数手に持った高村が扉を開けた。窓際の席に座る大野の姿が最初に目に入った。大野は頬杖をついて外を眺めているようだった。片山は一つ前の席に座っていた。楓は窓際には足が向かず、というより動かず、最も廊下側の席へどさっと腰を下ろして座った。精神的な疲れが一気に出てしまった。そしてぼんやりとなった。
「じゃあ、梅干しおにぎりと冷たいお茶ね」
 高村の低めた声と同時に、机の上にそっと売店の袋が置かれた。はっと気づいて、楓はカバンの中から財布を取り出した。おにぎりが百十円、紙パック入りのお茶も百十円で、計二百二十円だった。小銭は五十円玉が一枚と十円玉が八枚、一円玉が五枚あった。慌てて千円札を出そうとすると、高村の声がした。
「あ、いいや。前に秋山さんからチケットか何か買った時、俺、明らかに金額が足りなかったから、その分ってことで。あ、それでも足りないか」
 高村はジーンズの尻ポケットから財布を取り出した。
「ほんとはいくらで、俺はいくら払ったんだっけ?」
「五百円で、百五十円……」
 ぼんやりとなった楓は、思わず呟くように言った。お金に細かい楓は、高村が払った額も片山が払った額も、三カ月も前のことなのにしっかり覚えていた。
 楓の所属する演劇サークル「はばたき」の、夏の定期公演のチケットのことだ。本番の一ヶ月前の六月、楓は勇気を振り絞って男子学生三人(大野、高村、片山)に声をかけ、チケットを渡したのだ。大野だけは定価を払ってくれた。あの時の五百円玉の感触がよみがえる。心臓がどきどきしている。大野は今、あの時と同じ窓際にいるが、顔はこちらを向いていない。
「ってことは、あと百五十円……ちょうどあった。これでチャラってことで」
 高村は五十円玉二枚と十円玉を五枚、楓に渡した。さっきまで掲げていた、自分の成長はどこへやら、皮肉にもその「成長しなきゃ」の無理がたたって疲れ果てた楓は、以前のような暗い目をして、黙ったまま受け取った。五百円玉一枚に比べてじゃらじゃらと汚く、ずしりと重く感じた。「財布が重くなる」楓が最初に思ったのは、そんな身勝手なことだった。「いいの。気持ちだけで十分だから」本当に成長したのであれば高村にそう言うべきなのに、今の楓は、誰も知ることのない大きな衝撃に打ちひしがれ、「暗い子供」に戻ってしまっていた。今、チケットの話をされるなど、楓の隠れた「本心」にとっては拷問に等しかった。
「いい?それで」
 楓が無言で自分の財布に小銭をしまう姿を見て、高村が確認するように尋ねた。
「は、はい」
 はっと気づいて楓が慌てて返事をした時には、高村は窓際の二人のところへ行っていた。
「お前、秋山さんに借金でもあったのか?」
 片山が高村に聞いていた。
「お前だってあるだろ。ほら、前になんか、チケットみたいなの買った時」
「ああ……そういえば俺、いくら借金したんだろう?」
「知らねえよ。秋山さんに聞いてこいよ」
 楓はぼんやりしていて、高村の声が不機嫌であることに気づいていなかった。
「秋山さん。俺はいくら借金があったんだっけ?」
 片山が楓のそばに来て大きな声で言った時、教室の扉が乱暴に開き、三人の男子学生が入ってきた。楓はびくっとした。
「カタピー。お前、“お子ちゃま”に借金してんのかよ」
 そう言ったのは城之内だった。楓にこっそりつけられていたあだ名だ。改めて間近で言われ、楓は恥ずかしくて泣きそうになった。
「ああ、ちょっとな。秋山さん、いくらだっけ?」
 片山は何も気に留める様子もなく、屈託なく聞いてきた。「“お子ちゃま”は失礼だろう」などという言葉を期待するほうが間違っているのだ。
「三百円……」
 楓はうつむいたまま、小さな声で言った。
「カタピー。こんな“お子ちゃま”に三百万円も借金してたのかよ」
「“お子ちゃま”のくせに大金持ちだったのか。着てるものは全部、実は高級ブランドだったりして」
 今度は別の男子学生二人が楓を馬鹿にして言った。三人の嘲笑の目に晒され、楓はさらに恥ずかしくなった。涙をこらえるのがやっとだった。
「秋山さん、はい三百万。ちょうどね。ああ、なんか急に貧乏になった気がする」
 片山は百円玉二枚と十円玉を九枚、五円玉二枚を楓にじゃらじゃらと手渡した。楓はうつむいて黙ったまま、小さな両手で受け取った。
「小学生同士のやりとりみたいだな、カタピー」
「随分小金持ちだな、カタピー」
「賽銭箱みたいな財布だな」
「ふっふっふ。言ってくれたな。いいか。ジョーさん、黄門様、ツカやん。俺は今度の競馬、絶対に当てる。そして大金持ちになる」
 片山は、金持ちらしい三人の貧乏蔑視も気に留めず、水戸という名の男子には「黄門様」、手塚という名の男子には「ツカやん」と、親しげにあだ名で呼び、明るく冗談を言っていた。
「その台詞、夏休み前にも何度も聞いた気がするが」
「当てるのはいつも相方のほうだろ。高村。お前なんで、競馬新聞もろくに見ないくせに当たるんだよ?」
 水戸が窓際の高村に向かって大きな声で呼びかけた。
「数字ばっかり見て当たるかよ。馬を見るんだよ。パドック見てるとさ、あ、この馬来そうってのがピンとくるんだよ」
 高村も大きな声で答えた。
「マジかよ。それだけでわかんのかよ?」
 手塚が叫ぶ。楓は泣く寸前まできていた。なぜ片山も三人のお金持ちも、私を囲んでいるのだろう。話をするなら窓際へ行ってほしかった。大野はどうしているのだろう。ちらっと見ると、大野は我関せずとばかりに、さっきと同じ姿勢で外を見ていた。競馬の話はまだ続いていた。
「俺にはわかるけど、片山にはわかんねえんだよな。笑うのは俺で、泣くのは片山」
「お前、俺が必死こいて考えてんのに、お前はてきとうに選んで当てて……」
「見る目を養えよ。それより、弁当食わないなら、俺が食っちまうぞ」
「ああっ、待て。俺は朝から腹が鳴りっぱなしだ」
 片山がようやく離れ、窓際へ戻ってくれた。お金持ち三人も離れてくれたが、教室の真ん中辺りに席を取った。窓際へ近づかないのは「実は最も怖そうな」大野を恐れてのことだった。
 他のクラスメイトたちも教室に集まり始めたのだが、美咲と花枝はまだ来なかった。昨日から仲間はずれにされたようで、楓は寂しかった。
「二百八十円。一番安くて腹にたまるのは、やっぱのり弁だろ」
 高村が、売店で買ったのり弁当を片山に渡した。
「ああ、サンキュ。あっ、しまった。秋山さんに渡したからスッカラカンだ。漱石様(千円札)もいない。高村大明神様ぁ。明日でお願いしますだぁ」
 片山は高村に泣きついた。
「ああ、いつでもいいよ。おい、大野。さっきからずっとそっぽ向いてねえで、いい加減メシ食えよ。今日は特別に俺のおごりだって言ってんだろ。スペシャル唐揚げ弁当大盛りだ。とにかく食って、少しでも元気出せ」
「大野。立ち直ったんだろ。前向きになるんだろ。だったら食ってエネルギーをつけろ」
 高村と片山が励ますと、それまで黙っていた大野が、静かに口を開いた。
「秋の空になったと思って、うろこ雲を眺めてただけだ……」
 授業前の騒がしい教室の中で、大野の声は、深く、切なく、楓の胸に響いた。
「移ろい易きは、女心と秋の空、か……」
 高村は一人呟くように言った。自分の目の前で泣いた美咲と、大野の前で泣いた美咲を思った。
 楓は、美咲の事情を何も知らない。美咲に告白した大野ではない別の男とつきあう美咲の気持ちが、まるでわからなかった。美咲は大野とつきあわなければならないのに。何のために私が前向きになろうとしている……。そこまで考えて急いで止めた。一人でいるのは寂しいが、今日はもう、美咲の顔を見たくないような気がした。
「Tomorrow is another day.だ。お前の好きな言葉だろ。さ、食おう食おう」
 片山は、大野の好きな映画の台詞を言って(「風と共に去りぬ」一九三九年 米)、失礼した友をなぐさめた。
 楓にはその英語が映画の台詞だとも、どんな意味だとも知らない。
「そうだったな。サンキュ。片山。お前は、いいやつだな……」
 大野は静かに微笑んだ。
「何だよ急にあらたまって。腹減った。いただきまーす」
 片山が弁当を食べ始めた。
「あ、いくら?」
 大野が高村に聞く。
「だから、俺のおごりだって。どうせ競馬で当てたあぶく銭だから、気にするな」
 高村が答える。
「サンキュ。高村。お前も、いいやつだな……」
 大野は高村にも微笑み、ようやく静かに弁当に箸をつけた。
「美味い。二人の愛妻弁当って感じ……」
 大野はそれからしばらく黙って弁当を食べ、やがて物憂げな表情で言った。
「俺さ、この授業が終わったら帰るわ」
「わかった。代返(だいへん)しといてやるよ」
 高村は、大野が失恋した場合、友達と飲みに行って女の子たちを誘って遊んで発散させるのではなく、一人で傷に向き合うのだろうと察した。
「よし、リハーサルだ。ごほんごほん、えー、高村くん」
 片山が、この次の授業の教授の咳と声を真似て、まず高村を呼んだ。
「はい」
 高村がいつもの地声で返事をした。
「ごほんごほん、えー、大野くん」
「はい」
「似てる似てる。ばっちりだ」
 高村が真似をした大野の声は、似ていると言えば似ているが、楓にとっては、静かに癒すものでも、耳に心地よいものでもなかった。
 
 

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