見出し画像

二十年の片想い 14

14.
「あ、え、い、う、え、お、あ、お、か、け、き、く、け、こ、か、こ、…………………ぱ、ぺ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ、ぱ、ぽ」
 まだ夏の輝きを残した九月の青空に、白鷺大学劇団「はばたき」部員たちの発声練習の声が響く。夏休みは明けていないが、十二月の冬の定期公演に向けたキャンパス内での稽古は始まっている。
「一年生もだいぶ声が出るようになったな。特に秋山。前期は耳を澄ましても全く声が聞こえなかったのに、別人みたいに成長したな。泣かなくもなったしな」
 三年男子の、夏の公演では助監督を務めた板垣哲哉が楓を褒めてくれた。
「ありがとうございます」
 楓は今までになく、はきはきと返事をした。そうできるようになった自分が大きく成長したようで嬉しかった。
 夏休み、楓はエアコンが設置されていないアパートの部屋の暑さに耐えきれず、最初は実家へ帰った。だが、実家も居心地が悪く、暑さに強くなろうと思い直し、すぐに東京へ戻った。体力をつけようと、朝も早く起きてジョギングをした。朝、昼、夜、きちんと自炊して食事を取った。一人は寂しかったが、それを振り切るように、汗だくになりながら料理をしたり掃除をしたり、授業で出された宿題を真面目にやったりした。
 劇団「はばたき」の夏合宿という名の旅行は、思っていたよりも楽しく過ごせた。少しでも部員たちと打ち解けようと、まずは同期の女子の輪の中に入ってゆき、少しずつ喋り出した。女子先輩、男子先輩とも、少しではあるが喋れるようになった。
 後期の稽古も待ち遠しくなった。まさか狭いアパートの部屋の中で大声で発声練習などできないし、近くの公園や河川敷ですることにも抵抗があった。仕方がないので、部屋の中で口だけ大きく開けて、小さな声でやっていた。
 そして大野のことが頭に浮かぶと「違う違う。あれは恋なんかじゃない、あれは単なる芝居。あの人はただのクラスメイト」と、何度も自分に言い聞かせた。すると余計に思い浮かんでくる。テレビを見たり、何か別のことをしていても、余計に強く浮かぶ。眠れぬ夜も何度もあった。それでも言い聞かせた。「大野くんなんて好きでも何でもない。恋など最初からなかったんだ」と、何度も何度も。
 今日はいよいよ配役が決まる日だった。台本はあらかじめ配られていて、楓も何度も読んでいた。一年生が割り当てられる役はだいだい決まっていた。楓は少しでも台詞のある役をやりたかった。今度は前のような暗い役はやりたくなかった。受け身で待っていてもだめだ。主演の上流階級の若旦那に密かに想いを寄せる家政婦の役があった。十人いる家政婦の中で唯一名前がある。そして主演に向かって言う台詞が少しある。他の家政婦はみな黙って掃除をしたり食事を運んだりするか、家政婦同士のお喋りの場面があるだけだった。
「じゃあ、次、家政婦マリーを……」
 部長の江藤俊樹が言った瞬間、一年生十五人の手が一斉に挙がった。もちろん、楓も勢いよく手を挙げた。
「予想はしてたけど大混戦だな」
 江藤も、他の十四人の一年女子も、先輩部員たちも、楓が手を挙げていることに驚いていた。
「一人一人演じてもらう。市村さんを前にな」
 十四人の女子はざわついた。主演は、これが最後の舞台となる四年生の市村雅哉(いちむらまさや)だ。市村は稀に見る、おとぎの国の王子様とも見紛うべき、容姿端麗な男で、女子部員の中では
人気断トツで、部外のファンもかなり多かった。女遊びも派手らしく、常に何十人もの彼女と同時につきあっているのではないか、一週間ごとに彼女を取り替えているのではないか、曜日ごとに替えているのではないか、など、様々な噂があった。かなりのナルシストであることは誰もが知っていた。だが、演劇に対する目は誰よりも厳しかった。楓とは全く別世界の、無縁の男だった。とはいえ、目の前でいきなり演じるというのは、楓のみならず誰もが緊張した。
「じゃあ、菊地から」
「はい」
「後は順に並んで座って待つように」
 楓は一番最後となった。
 誰もが美貌の先輩を目の前にして、顔を赤くして、声がうわずったり、台詞を間違えたりした。一人一人の演技を、市村はもちろん、今回監督を務める四年生の内野雅樹(うちのまさき)も、助監督を務める三年生の宮本明生も、ヒロインを演じる四年生の篠原麗子(しのはられいこ)も、他の先輩たちもみな、厳しい目で見ていた。
「じゃあ、最後、秋山」
「はい」
 楓は以前はおずおずと動いていたが、今日は違った。名前を呼ばれるとはっきり返事をしてすっと立ち上がり、市村の前に立って一礼した。
「よろしくお願いします」
 市村の顔を間近で見たが、白くて美しすぎる顔立ちは、生身の人間というより、動くマネキン人形のように思えた。身長はクラスの高村と同じぐらいだろうか。黒いTシャツにジャージ姿ではあるが、大金持ちの名家の子息なのか、全体的に優雅で、上質な気品が漂う、姿勢の良い男だった。
 楓は順番を待っている間は心臓が飛び出しそうになっていたが、いざ目の前にくると、不思議と緊張しなくなっていた。以前はあれほど怖いと思っていた周りの視線も気にならなかった。
「じゃあ、いくよ。用意……スタート」
 板垣の声がすると、楓は不思議と、「家政婦マリー」と一体となった。一呼吸おくと、何度も練習して覚えた台詞が、自然に口から出た。
「おお、旦那様、どうぞ、お待ちください」
 楓が言うと、去りかけた市村が振り向いて楓の顔を見た。
「旦那様、わたくしは、わたくしはずっと、ずっと前から旦那様を……そのお姿が、そのお声が、いつもわたくしの頭から離れることはございません。夜も眠れぬほどでございます」
「どうしたんだ、マリー」
 市村が台詞を言う。
「このようなことを申し上げられる身分でないことは、十分承知致しております。ですが旦那様、この胸が、この心が、このあふれ出る想いをお伝えせずにはいられなくなったのでございます。どうぞ、お許しください」
 楓は涙を流して、市村の前にひざまずいた。これで演技は終了だった。
「この子で決まり」
 市村はあっさりと、しかし重みを含んだ声で言った。部員たちはざわついた。楓はひざまずいた姿勢のまま、何かの間違いではないかと、耳を疑った。
「秋山。もう起きてもいいぞ。マリーはお前に決まりだ。もっと喜べ」
 江藤の声で楓はやっと我に返り、頭を上げて立ち上がった。周りの者たちがみな、板垣も宮本も、麗子も、監督の内野さえも、雷に打たれたかのような、驚愕の表情を浮かべていた。目の前には美しい顔をした市村が、美しい微笑みを浮かべて立っていた。
「あ、ありがとうございます。とても信じられなくて……」
 楓は深々とお辞儀をした。
「切ない想いが胸に響くように、強く伝わってきた。秋山さん、だね。こんなにいい芝居をしてくれるとは、正直僕も驚いたよ」
 市村は、声にも喋り方にも気品があふれていた。
「あ、ありがとうございます。がんばりますので、よろしくお願いします」
 楓は、市村から直に芝居ではない生の言葉を言われると、急に緊張して顔が赤くなり、もう一度深々と頭を下げた。自分でもなぜあのような演技ができたのか、不思議だった。以前のような怯えて流していた涙ではなかった。台詞を言ううちに、自然と流れてきたのだ。
 後から思えば、心の奥底にくすぶる大野への想いが、消したと思ったら再び激しく燃え出した炎のように、一気に吐き出されたのかもしれなかった。
 楓の後期の演劇サークル生活は、泣き虫で終わった前期とは一変して、好調なスタートを切った。前途は揚々と輝いているかに見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?