二十年の片想い 32
32.
「お前、美咲ちゃんの真似しようったって無理だぞ」
授業が終わった後、高村が笑いこけながら言った。大野も、美咲も花枝も、そして楓も、片山には笑わされた。五人の視線が一斉に片山に注がれた。
片山は真っ先に美咲と大野を交互に見たが、昨日の騒動など嘘のように二人とも笑っていた。フランス語で遅刻の言い訳をしたのは、クラス中に笑いをもたらすためではなく、大野と美咲に笑ってほしかったからなのだが、功を奏したのか、授業の前からそうなのか、二人は他の三人と同様に笑い、五人の雰囲気は以前と変わらぬ明るいものだった。ほっとしたような、気が抜けたような、そんな気持ちだった。
「でも怒られなかったもんねー。俺がちょっと本気出せばフランス語なんてちょちょいのちょいよ」
片山は、大袈裟に五人に自慢するような身振りで「コメディアン」を崩さずに言った。
「まだまだ勉強が必要ですよ。Monsieur Katayama.」
美咲が「私なら大丈夫」と目で伝えながら、笑って冗談めかして言った。
「厳しいなあ、マドモワゼル・サクラは。実はさ、昨日の夜はゲームにハマって予習どころか、寝たのが三時で、起きたのが八時半過ぎだったんだよ。超焦った」
片山も「安心したよ」と目で伝えながら喋った。
「高村の言ったとおりだな。八時半過ぎに起きて、たった三十分で大学来たのか?あ、お前のアパートからなら、来ようと思えば来れるか」
大野も「昨日は悪かった。もう大丈夫だ」と目で伝え、深刻なムードにならないように必死で笑いをとろうとしてくれている片山の気づかいに感謝しつつ、言葉ではあえて、いつもの何気ない会話にした。
片山も「了解。安心した」と嬉しそうに、さらにコメディアンを続けた。片山はもともと冗談好きなので、さほど神経を使う必要はなかった。
「ふっふっふ。ムッシュウ・オオノ。よくぞ聞いてくれた。ただぼんやりしていては来れぬ。並々ならぬ努力があってこそだ。いいか、まず起きてダッシュで着替えて五分で家を出ただろ。駅まで猛ダッシュして十分で着いただろ。運良くすぐに電車が来て、五分間乗っただろ。そんで大学駅からまた猛ダッシュして、教室までたったの十分で着いたんだぞ。それで計三十分」
片山は身振り手振りを交えながら自慢げに言った。
「俺だってその気になれば五分で家を出れる。駅まではチャリ飛ばせば十分で行ける。大学駅からは、その気になれば五分で来れる」
大野はコメディーはあまり得意ではないが、冗談半分で片山に対抗するように言った。
「イヤミなやつだな。足の長さが俺の倍はありそうだな。だけどフラ語で言い訳はできないだろう?」
片山談。
「あんなのでよければ誰だって。でも、許してもらえるのはお前だけだな。俺が言ったら逆に『馬鹿にしてんのか』とか怒られそうだ」
大野談。
「Bonjour monsieur Satou. Trainが遅れてpardon. S′il vous plait.てきとうでも真面目な顔して言ったらどうだろう?今度遅刻したらやってみようかな?」
高村もいつものように、片山と大野の会話に参加した。
「前から思ってたけど、高村くんって発音はばっちりフランス人だよね。美咲にも劣らないよ。それなら“サトちゃん”も許してくれるかもよ」
花枝も笑いながら会話に参加した。
「あたしよりもぜんぜんいいよ。クラスで一番上手いんじゃない?」
フランス語が堪能な美咲も嫌味を言ったわけではない。以前は授業で高村が教授に当てられる度に、文章を読み上げるその声に聴き入っていた。あのぐらい発音できるようになりたいと、密かに練習していたのだ。
「だから“サトちゃん”は毎回のように、美咲ちゃんと高村に当てるのかな?できる生徒がやってくれるは楽だもんな。今日だって……」
大野が高村に視線を移す。
「しかも、初っぱなから。助かったぜ、大野」
高村は一番最初に当てられ、大野は素知らぬふりをして自分の教科書を高村に渡し、高村は大野の教科書を手にフランス語の文章を読み、さも予習は完璧であるかのように、日本語に訳していったのだった。
「その割には堂々と読んで、褒められていたじゃないか」
「発音はてきとうなんだけど、なぜか褒められる。でも日本語訳は滅茶苦茶だ。大野は逆だよな。発音は別に悪くないような気がするけど、“サトちゃん”のお眼鏡にはかなわないらしいな。だけど、訳は完璧だ、とか言われてるじゃねえか。お前だって何気に、当てられる回数は多いぞ。今日だって結局、しかも後半な」
大野が当てられた時は、逆に高村が自分の教科書を大野に渡していた。
「助かったよ。お互いさまだったな」
「俺なんか、発音も訳もどっちもだめだ。笑いで誤魔化すしかねえよ。でも、今日は必死の祈りが通じて、当たらなくてほっとした。いっそのこと、美咲ちゃんが先生だったらいいのに。机の上でミニスカで足組んで、個人指導なんかしてもらえたら、俺はあっという間にフランス人」片山談。
「それじゃかえって鼻血出して終わりだろ」高村談。
「授業料、一回一万円ならやってあげてもいいよ。中を見たら一回につき罰金千円」美咲談。
「美咲。そういうのは彼氏の前だけにしなさい」花枝談。
「だったら裸でしなきゃ」
「こらっ!美咲ものろけすぎ!仕返しだっ」
「痛っ」
花枝は笑いながら美咲に軽くデコピンをした。
「のろけすぎ」
「いたたっ。大野くん、そんなに強くしなくても……痛い……」
大野は笑わず、美咲のおでこを中指で力一杯はじいた。本気のデコピンだった。
「やべっ。喋ってる場合じゃなかった。次の授業があったんだ」
高村が腕時計を見て慌てた。選択科目の授業開始まで残り一分だった。
「真面目にフラ語で言い訳しろよ」
片山がからかった。
「Bonjour monsieur ヅラ(かつら)。とか言えないだろ。っていうかフラ語じゃねえし。じゃあな、また後で」
高村は猛スピードで次の授業の教室へ走っていった。
「高村くん……あ、哲学とってるんだったよね?サークル入ってないから、厳しいって噂を知らなかったんだね。そうだ。“ウイ・ラブ・カラオケ”、今日あたり顔出してみようかな」花枝談。
「ネーミングがあたしのサークルと似てるよね。“ラブ・ユー・テニス”だし」美咲談。
「俺なんか“ラブ・ユー・貧乏”だよ。でも明日はバイト代が入る。今日一日の辛抱だ。そして日曜日には競馬がある」片山談。
「片山。“優駿”という名の競馬愛好会にに入ってて、データ分析してて、なんでいつもはずれるんだ?」大野談。
「それを言うな。だから高村の謎の直感が羨ましいんだよ。大野だって、おもしろい名前の馬とかで、てきとうに選んで当たって……シクシク、俺は自分が情けない」
「泣くなよ。この前は偶然当たっただけだって。“スッカラカン”とかいう名前の馬がいて、俺の財布と同じだと思って、なけなしの百円で馬券買ったら、大穴だっただけだ。今日は俺がメシおごるよ。カツ丼でもなんでも」
「え、ほんと?ご馳走さまです。あたしもカツ丼で」
花枝がすかさず、いたずらっぽい笑顔で言った。
「じゃあ、あたしは激辛カレー。今月いっぱいで終わりだから食べておかなきゃ」
美咲も大野に微笑んだ。
「はいはい、みなさん。予算は千円しかありません。一人頭二百五十……いや、二百円以内でお願いします。従ってカツ丼はだめです。該当するのは、カレーとラーメンと本日のおすすめランチです」
大野は片山におごると言ったのだが、美咲に見つめられては女子二人、いや三人にもおごらざるを得なくなった。財布には千円札一枚と小銭が少ししかなかった。
「ほんとにいいの?じゃあ、あたしは普通カレーにしようかな」
花枝談。
「じゃあ、お言葉に甘えて、あたしは激辛カレーを」美咲談。
「ありがとうごぜえますだぁ、ムッシュウ漱石(千円札)。おすすめランチで十分ですだぁ」片山談。
「楓は何がいいの?」
美咲がようやく楓に声をかけた。
「私は大丈夫。自分で買うから」
楓は笑顔で遠慮した。食事をおごってもらうなど、とても卑しいことのように感じた。
「大野くんのせっかくの厚意に、甘えないほうが失礼なんだよ」
美咲は諭すように言った。
「じゃあ、普通のカレーで……」
楓はためらいがちに答えた。美咲が声をかけてくれるまで、会話に参加することができなかった。笑顔で聞いてはいたのだが、楓から見ると矢継ぎ早に言葉が出てくる五人の会話のスピードについてゆけず、自分から言葉を発することはできなかった。寂しくて情けなかった。聞いてわかったのは、片山が家からわずか三十分で教室へ来たこと、大野は大学駅からたったの五分で来られるということ、高村はフランス語の発音が上手いこと、大野は日本語訳が完璧であること、片山が美咲のスカートの中を見たがっていること、美咲がはしたなくも「色気」を見せてもいいと言ったこと、高村が一般教養科目の哲学を選択していたこと、高村以外の四人もサークルに所属していたこと。大野が競馬で儲けたこと、花枝が図々しく大野に昼食をおごれと言ったこと、大野がおごってくれると言ったこと、私は断ったのに美咲はやさしく説教しておごってもらえと言ったことだった。前向きに解釈すれば、これだけの内容を理解できたことは大きな成長だった。
だが一つ、どうしても引っかかったのは、脳裏に焼きついてしまったのは、大野が美咲のおでこを指ではじいた場面だった。かなり親しげに美咲に触れた、そんな風に見えた。美咲は自分で大野をふっておきながら、美貌と「色気」で今日もまた大野を虜(とりこ)にしている。天使の顔をした悪魔だ。いや、そんな風に考える私は醜い。美咲は美人で「色気」もあって、性格はさっぱりして、誰の目にも魅力的な少女だ。大野は一見、ふられたことを気にしていないように見えるが、やっぱり美咲の魅力には負けてしまうのだろうか。私には何一つ、美咲に敵うものがない。楓は劣等感に襲われ始め、「私には関係ない、関係ない」と急いで心で呪文を唱えた。
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