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二十年の片想い 19

19.
「では、夏休みの課題の提出は、特別に来週に延期する。今日の時点でこれほどやっていない者が多いとは驚きだ。大学は遊ぶところではないんだぞ。いいか。来週未提出の者、または著しく間違いの多い者、他人のものを丸写しした者は、単位を落とすことにする。そのつもりで」
 さらに数日後、教授が怒りを顕わに出ていった教室では、ブーイングやぼやきであふれていた。
「ふざけんなよ、あのおやじ。夏休みにこんな英語の文章五十ページも読んでられるか」
「俺も今日言われて初めて思い出した。こんな宿題があったことを。まさか、大学に入ってまで夏休みに宿題が出るとは思ってもいなかった」
「あたしも北海道旅行のことで夢中で、すっかり忘れてた。これからこんなの訳すなんて、見ただけで頭痛がする。あ、美咲はやってないでしょうけど、余裕でしょう?」
「あたしも、フランス語ならいいけど、英語は嫌。こんな宿題めんどくさい。誰かやってくれないかな」
 片山、高村、花枝が順にぼやき、最後に美咲がぼやくと、大野は一人、無言でその英文を読み始めた。
「お前まさか、辞書なしでわかるとか?」
 片山の問いかけにも答えず、大野は真剣な目をして二ページ目、三ページ目と読み進めていった。
「要約じゃだめなの?」
 大野は途中で顔を上げて、美咲の目をまっすぐ見て言った。
「だめみたい。全文訳さないと……」
 美咲は戸惑い、目を逸らしてしまった。大野はしばらくパラパラとページをめくっていたが、決心したようだった。
「今から図書館に行って、やってくる。俺、もうこの後授業ないし」
「えっ?やってくれなんて冗談だからね。自分でちゃんとやるから」
「フランス語の借りがあるから。遅刻仲間として」
 宿題の分厚い英語の文書や筆記用具をビジネスバッグにしまって席を立った大野を、美咲は止めようとした。
「あれは、ほんのちょっとのことだから。だってこれ、五十ページもあるんだよ。すごく大変じゃない。みんなで手分けして……」
「これぐらい、どうってことないよ。美咲ちゃんは安心して、明日まで待ってて」
「そんな、ちょっ……」
 美咲が止める間もなく、大野は美咲にやさしく微笑むと、教室を出ていった。
 夏休み中に真面目に宿題をやり終えた楓は、「適度に真面目に、基本楽しく」大学生活を送る五人の仲間と、「とにかく真面目に、ひたすら真面目に」やっている自分一人が、透明な固い壁で隔てられたような、寂しさを感じた。同時に、大野が迷わず美咲のために行動する様子は、どうしても見ているのが辛くて、目を背けていた。耳も塞いでしまいたかったが、露骨にそんなことはできず、美咲のために発せられる大野の声は、否応なしに耳に入ってくる。そして胸に刺さって痛い。「違う。私は大野くんなんて、初めから好きでもなんでもない。恋など初めから存在しない」と、楓は頭の中で、何度も自分に言い聞かせていた。
「花枝、どうしよう?」
 美咲はオロオロしていた。
「やってくれるって言うんだから、厚意に甘えたら?でもこれ、一日で終わす気なのかな?すごく自信たっぷりに」
「花枝。ちょっと話聞いてくれる?」
「どうしたの?美咲。何かあったの?」
 美咲は思い詰めた顔をして、花枝の腕を引っぱって教室を出ていった。そんな美咲の様子を、高村は目で追っていた。あの日、美咲は三限の授業にも四限の授業にも姿を見せなかった。
「高村。どうしたんだ?ぼんやりして。恵ちゃんのことでも考えていたのか?」
「え?あ、いや、英文五十ページとか、見ただけで気が遠くなる」
「恵ちゃんは英文科だって言ってたじゃないか。何か美味いものでもご馳走して、やってもらえばいいじゃないか」
「お前は、らせん階段の部外者だよな」
「は?」
 高村は片山の問いかけには答えず、美咲を心配した。大野を心配した。
「俺も真面目にやるか」
「何言ってんだお前。恵ちゃんのこと考えすぎて、頭がおかしくなったのか?五十ページも一人でやる気か?大野は、美咲ちゃんのためとはいえ、でもあいつ、超頭いいからな。俺たちもあいつの世話になるか。二人で金出し合って、一週間ずっとメシをおごるとかして」
「いや、俺はいいや。あいつにはあいつの信念があるんだろ」
「まあ、プライドの高い男だからな。だったらせめて、俺たち二人で分担……あ、花枝ちゃんも誘い込んで三人で、明日分担しようぜ」
 片山は楓をちらっと見た。
「秋山さんはばっちりだよね」
「私は結構ひまだったから。でも、一週間ぐらいかかっちゃった。訳も、間違っているかもしれないけどね」
「休み中にやっても一週間?」
「二、三ページやると嫌になっちゃって、少しずつやってたから」
 楓は美咲に声すらかけられず、ぽつんと取り残されていた。何か重大な相談事なのか、そういった時はいつも美咲と花枝の二人だけで、楓は入れてもらえなかった。寂しかった。
「じゃあ、私は、部室に行くね」
「がんばって、女優」
「ありがとう」
 片山とは意外とすんなり、緊張せずに喋ることができた。かわいらしい童顔と愛想の良さは、誰にでも好かれていた。一方の高村は、顔立ちも整い、さわやかな笑顔を見せるのだが、ごく普通に喋ってくれるのだが、まっすぐな目にはまだ慣れなかったし、時折見せる大野に対抗するような目も、怖いと感じることがあった。片山と「漫才」をしていることが多いのだが、今日は思い詰めたような顔をしていた。楓はもちろん、美咲の恋心など知る由もなかった。自分のことだけで精一杯だった。ただ、高村が呟くように言った「らせん階段」という言葉だけが頭の片隅に残った。

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