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二十年の片想い 29

 29.
 楓は一人ぼっちで帰路に着いた。辺りには夕闇が迫っていた。周りを通りすぎる学生たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。深い孤独感に襲われた。涙が出てきた。私の今日の一日は何だったのだろう。大野には、ショックを受けたのではなく、見たことのない一面に少し驚いただけだ。美咲には、嫌悪感を抱いたのではなく、代返をする勇気が少し足りなかっただけだ。「思いやり」は今度から考えよう。片山と高村と花枝の三人の中へ入れなかったのは、真面目に授業を受けていたからだ。子供扱いされるのは、きっと見た目が幼いからだ。もっと外見も中身も大人にならなければ。もっともっと成長しなければ。楓は涙を打ち消すように、自分に言い聞かせながら、背すじを伸ばし、顔を上げて前を向き、きびきびと歩いて大学の最寄り駅へ向かった。だが、電車に乗って空いた席を見つけるなり、やっと安楽椅子を見つけたかのように、すぐ近くに老齢の女性が立っていたことにも気づかず、どさっと腰を下ろした。身体はかなり疲れていた。頭もぼんやりとなった。
 アパートの最寄り駅を出ると、ぼんやりしたまま、視界に入るアスファルトの道を見ながら、のろのろと歩いた。背中はすっかり丸まって、頭も垂れてしまい、上がることはなかった。身体は正直だった。
 普段はきちんと自炊をしている楓だが、今日はコンビニの明かりを見つけると、ふらふらと中へ入っていった。酒コーナーへ向かった。人生初だった。演劇サークルの夏合宿では(合宿という名の部員旅行)、未成年の同期の者たちも酒を飲んで楽しそうに笑っていた。重く黒い雲が少しは晴れてくれるのではないか。心の奥の本心がそう考えていた。ビールが何種類かある。どれがいいのかわからないが、最も値段の安い缶ビールを二つ、かごに入れた。カラフルな缶の果物の酒らしきものもいくつかある。ジュースの缶を少しお洒落にしたようなものだった。どれも美味しそうに見えた。オレンジの絵が描かれたもの、巨峰(ぶどうの一種)の絵が描かれたもの、赤いりんごの絵が描かれたものを選んだ。酒コーナーを後にすると、スパゲティナポリタンが美味しそうに見えた。かごに入れた。余計な出費だと思ってお菓子も食べなかった楓だが、周りの者たちが食べているのを見て、美味しそうだとは思っていた。チョコレートとポテトチップスをかごに入れた。デザートもしかりだった。白い生クリームののったチョコレートムースが美味しそうに見えた。かごに入れた。レジへ行った。カバンを開けると、小銭入れの部分が大きく膨らんだ財布が目に入った。中を開けると数えきれないほどの十円玉が入っていた。小銭はいつもこまめに遣うのに、いつの間に増えたのだろう。
──こんな“お子ちゃま”に三百万円も借金してたのかよ──
 クラスの男子学生の声がよみがえった。楓はぶるんぶるんと頭を振った。酒を飲もうとしているのだ。子供なんかじゃない。
「あの、千九百九十六円です」
 学生アルバイトらしき若い男性店員の怪訝な目と不機嫌そうな声に、楓ははっと我に返った。店員が何度も会計額を言っていることに、楓は気づいていなかった。
「はい?」
 耳を疑うような高額な会計に、楓は思わず聞き返した。
「千九百九十六円です」
 店員が声を大きくして言った。レジにも確かに「1996」と表示されていた。楓は慌てて財布から千円札を一枚取り出して、会計皿の上に置いた。百円玉は二枚しかなかった。千円札をもう一枚置いた。
「二千円から……」
 店員が言いかけたのにも気づかず、楓は必死で十円玉を九枚出して皿に置いた。一円玉は六枚あるかと思ったら五枚しかなかった。仕方なく五円玉一枚と、一円玉一枚を置いた。
「二千、九十六円からお預かりいたします」
 店員は今にも舌打ちしそうだった。楓は怖くて縮こまった。後ろには五人ほどの客が苛立って並んでいた。
「あの、温めますか?」
 会計した商品を袋に入れていた、もう一人の学生アルバイトらしき男性店員が苛立ち声で聞いてきた。楓はその店員が何度も聞いていたことにも気づいていなかった。しかも、何を「温める」のかわからなかった。
「はい?」
 楓は聞き返してしまった。店員はスパゲティのパックを持っていた。
「はい」
 訳がわからぬまま、楓は生返事をした。店員はスパゲティを持って、後ろの電子レンジに入れた。楓は、コンビニというところでは買ったものを温めてくれるということを初めて知った。
「百円のお返しです」
「は、はい」
 楓は慌てておつりを受け取り、財布にしまった。缶が五つも入ったレジ袋は、ずしりと重かった。店を出ようとして店員に呼び止められた。
「あ、お客さま。商品のほう……あと一分お待ちください」
「す、すみません」
 楓は袋の重さに気を取られ、スパゲティのことを忘れてしまった。ようやく温まったらしいスパゲティを、店員は別の袋に入れて寄越した。
「お待たせいたしました」
 楓は自分で買っておきながら荷物が増えたことが不愉快で、黙って受け取り、熱い袋をやっと持った。
 よたよた歩いて店を出て、ようやくアパートにたどり着いた。部屋の鍵を開け、中に入ってドアを閉めるなり、大粒の涙がどっと流れた。涙はどんどんあふれ出て、止まらなくなった。
「う、う、う……うわーん、うわーん、うわーん……」
 楓は幼児に退行したかのように大きな声をあげて泣いた。涙も泣き声も、勝手に出たのだ。たまらなく寂しいのだ。たまらなく悲しいのだ。たまらなく孤独なのだ。
「うわーん、うわーん、うわーん……」
 楓は持った荷物の重さも忘れ、立ったまま十分近くも泣き続けた。
──“お子ちゃま”に借金してんのかよ──
──大人にはいろいろあるんだよ──
 男子学生の嘲笑と、花枝の声がよみがえった。
「ひっく、ひっく……こどもじゃないもん。お酒飲むんだもん……」
 楓はテーブルの上に、コンビニで買った酒その他の袋と、スパゲティの袋を置いた。
──Tomorrow is another day.だ。お前の好きな言葉だろ──
──Tomorrow is another day.だよ。美咲の好きな映画の台詞でしょう?──
 片山の声と花枝の声がよみがえる。
「ひっく、ひっく、関係ないもん……」
──泣くぐらいだったら、俺のほうがましだろ──
 そして、大野の怒鳴り声と、椅子を蹴飛ばす姿、椅子がぶつかる激しい音が、またしてもよみがえった。
「ひっく、ひっく、びっくりしただけだもん……」
 楓はビールの缶を一つ開け、恐る恐る一口飲んだ。苦いだけだった。美味しくなどなかった。
──俺は、美咲ちゃんが、好きだ──
 そして、最も残酷なのは、大野のこの言葉だった。
 楓はまずいビールを、炭酸のせいで一気に飲み干すことはできず、ごくり、ごくりと、無理やり一口ずつ飲んでいった。
──俺は、美咲ちゃんが、好きだ。俺は、美咲ちゃんが、好きだ──
 大野の声は容赦なく、楓の頭の中で何度も何度もこだまする。
「関係ない、関係ない、関係ない」
 楓は大声で叫ぶと、果物の酒のうち、オレンジの絵の缶を開けた。それは甘くて美味しかった。しかし楽しくはならなかった。空腹であることに気づき、すっかり冷めたスパゲティを食べた。美味しくなかった。チョコレートを食べた。甘くて美味しかった。それでも大野の声は、頭から離れてくれない。オレンジサワーをごくり、ごくりと、一口ずつ飲んだ。次に巨峰サワーを飲んだ。甘くて美味しかった。少しだけ、頭がほんわかしてきた。歌を歌えば楽しくなるだろうか。甘いジュースのような酒を飲みながら、唯一知っている歌謡曲を口ずさんだ。
 それは、昔、小泉今日子が歌っていた「木枯らしに抱かれて」だった。テレビもろくに見せてもらえなかった楓だが、いつだったか、偶然目にした歌番組で、この歌のメロディーが耳にすっと入ってきた。別な歌番組でも偶然聴いた。何度か聴くうちに歌詞も自然に覚えてしまった。今、楓は、歌詞の意味など考えず、無意識に歌っていた。
 それが報われることのない、悲しい片想いの歌だと気づくのは、何年も経ってからのことだ。そして、なぜこんな歌だけを覚えたのか、昔からそのような定めにあったのかと、悲しみは一層増すのだった。

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