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二十年の片想い 24

 24.
「ねえ、秋山さん」
 午前の授業が終わった教室の席で、楓が一人震えていると、強い香水の匂いがして、突然後ろから声をかけられた。楓はさらに震えた。美奈子と理香子だった。用件は予想がついた。
「英語の宿題、秋山さんならとっくに終わってるよね。あたしたちも一応やったんだけど、ちょっと訳に自信がないんだ」
「あんまり間違ってると怖いでしょう?確認したいからコピーさせてほしいんだけど」
 楓はまだこの二人が怖かった。だが、成長しなければと自分に強く言い聞かせ、思い切って二人に向かって声を発した。
「私はまだ、ぜんぜんやってないです」
 声は少し震えたが、はきはきと言った。生まれて初めて、人に抵抗した。
「嘘。真面目な秋山さんがやってないはずない」
 美奈子が媚びるようで馬鹿にした目を向けた。
「嘘じゃないです」
 楓は、泣いちゃだめだ負けちゃだめだと言い聞かせ、頑張って二度目の抵抗をした。
「照れてるんでしょう?真面目だねって褒めてあげてるんだから」
 理香子の目も、完全に楓を見下していた。
「ほんとにやってないです。だからコピーのしようもないです」
 楓はかなり頑張って、三度目の抵抗をした。緊張のあまり呼吸が浅くなり、心臓も飛び出しそうだった。
「秋山さん、嘘が下手。目が泳いでるもん」
「生意気言ってないでさ、早く貸してよ。後生大事に持ち歩いてるんでしょう?」
 二人の目がつり上がり、声には脅しがかかった。
「本人がやってないって言ってんだろ」
 と、突然、立ったままの大野が、凄みを帯びた声で、美奈子と理香子に怖い目を向けた。二人は今まで大野と口を聞いたことはなかったが、知的で穏やかなイメージを持っていた。それが今日、怒鳴って椅子を蹴飛ばしたのだ。二人は大野を恐れた。
 楓はほっとしたと同時に、怖い声を出す大野を恐れた。大野は楓を助けようとしたわけではなく、やり場のない怒りや悲しみを、美奈子と理香子にぶつけようとしていた。
「大野。やめろ。本間さんと香川さんには関係ないだろ」
 高村が、今日は自分が冷静になって、大野を止めようとした。
「大野。落ち着け。女子には手を出すな」
 片山も、自分よりもずっと背が高く、本気を出したらどれだけの力があるかわからない大野を恐れながらも、高村とともに止めようとした。
 大野は高村と片山の言葉も耳に入らぬ様子で、黒いビジネスバッグの中から、自分が訳した原本を取り出すと、美奈子と理香子の前に、ばさっと投げつけるように差し出した。二人は「きゃっ」と悲鳴を上げ、身体をくっつけた。
「コピーしたいんだったら、これ、勝手にして。ただし、二十五枚、両面するのが面倒だったら一人五十枚になる。秋山さんの分も入れて、百五十枚ね」
 大野はひどく冷たく投げやりな口調だった。いつものやさしさが微塵も感じられず、楓はただ、緊張しながら成り行きを待つしかなかった。
「なんで秋山さんの分までしなきゃいけないのよ」
 美奈子が震えながら、ようやく声を出した。
「それから、小谷さんと、片山と……」
 大野は美奈子を無視して続けた。
「高村の分もね。合計三百枚。大変だろうけどよろしくね。もし、原紙を一枚でもなくしたら……」
 大野が睨みつけると、美奈子と理香子はさらに震えた。
「大野。二人に八つ当たりはやめろ」
「自棄になるな。宿題なんて自分たちでどうにかするから」
 高村と片山が再び止めに入った。
「別に自棄になんかなっていない。コピーぐらいどうってことない。クラス中が一言一句全部丸写ししても、俺だけは単位を落とさない。内容は頭に入っているから」
 大野はさらに投げやりに言った。高村はひとまず、美奈子と理香子に「離れたほうがいい」と目で伝えた。
「いいわよ。別な人に頼むから」
 美奈子と理香子は逃げるように、走って教室を出ていった。高村と片山は「芳香剤」の匂いを手で扇いで払いながら、大野の様子をうかがっていた。次なる八つ当たりのターゲットは、こっちか、小さくなって震えている楓か。大野の目は楓に向けられた。
「やめろ。殴りたいんだったら、蹴飛ばしたいんだったら、俺らにしろ」
「秋山さんを殺す気か」
 ところが大野は、少し間をおくと、それまでとは打って変わって、いつもの落ち着いた口調に戻った。
「秋山さんは、コピー取らなくていいの?」
 大野は声は戻っても目は虚ろだった。聞かれた楓は、返事に困った。心の奥の本心は、大野が書いたものならば、コピーがほしいと願っていた。しかし、すぐにそんな思いは否定した。前を向いて成長しなければと。
「私は、本当はやってあるの。あの二人には、もうコピーさせたくないから」
 楓はかろうじて、はきはきと言った。
「そう」
 大野は虚ろな返事をしただけだった。
「じゃあ、私はこれで」
 楓は大野を見ているのが辛くて、教室を去ろうとした。なんとか、笑顔を作り、挨拶した。きびきび歩きたいのに、足も腰も言うことを聞かず、よろめいて、机につかまりながら、教卓の前に転がった椅子にはあえて目を向けず、ようやく教室を出た。美咲と花枝を探そうとすら、考えつかなかった。全てが闇に包まれたようだった。
 後々、楓は後悔する。この時、「成長」など掲げず、別な方面に強く、つまり少し図々しくなって、失恋の痛手につけ込んで、大野にやさしく、なぐさめるふりをしてでも、やさしく接して、近づけばよかったと。そうすれば、もしかしたらいつか、大野は振り向いてくれたかもしれなかったのに。大野の筆跡のコピーぐらいもらっておけばよかったと。写真の一枚も何もない、たった一人の好きな男(ひと)の、大切な記念品として。

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