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二十年の片想い 17

17.
  数日後、美咲は大学最寄り駅の駅前広場にある「友情の像」なる、詰め襟の学生服に学帽をかぶった男性が二人並んで立つ、大きな彫像の台座の陰に隠れて、改札口をじっと見ていた。まだまだ残暑は厳しいが、快晴の空は、あの日のように青くまぶしい。腕時計を見た。もうすぐ来るはずだった。
 美咲はその姿を見るなり、胸が高鳴って、普段ならすることのない緊張を覚えた。高村が一人、改札口を出て大学へ向かって歩き出した。いつも片山と大野と一緒にいることが多いので、一人になる機会を密かに調べておいた。今日の二限の一般教養科目だけが、高村が二人から離れて選択していることが、三人の会話からわかったのだ。幸い今日は、一限の授業は休講となっていた。またとないチャンスだった。
 高村が「友情の像」の横を通り過ぎて、しばらく歩いたところで、美咲は偶然を装って走って近づいた。
「おはよう、高村くん」
「あ、美咲ちゃん、おはよう。今日は二限に別の般教(ぱんきょう)あったっけ?」
 癖でまっすぐ見てくれるその目に、今日は素直にどきりとした。
「ううん。今日は久々にサークルに顔出してみようと思って。高村くんは?」
 それは嘘ではなかった。美咲はスポーツバッグにユニフォームやシューズ、タオルなどを用意し、テニスラケットを持っていた。
「俺は真面目に授業だよ。哲学、少し興味があって取ったはいいけど、クラスに誰も取ってるやつがいなくて、一人真面目に出席するしかなくてさ」
「ああ、あたしもちょっと興味はあったんだけど、サークルの先輩に聞いたら、先生がすごく厳しくて単位を取るのが難しいから絶対やめたほうがいいって言われて、結局取らなかったよ」
「俺もちゃんと聞いてから選べばよかった。テストでは教科書持ち込み不可だし、出席率九十パーセントじゃないとダメとか言うし。サボれないし、授業中に寝ててもヅラ(かつら)が取れそうな剣幕で怒られるし、うるさいじじいだよ。内容も難しくて、せめて大野がいてくれればなんとかなったのに、ほんと失敗したよ。あの大教室に十人ぐらいしかいないんだよ。遅刻なんかしたら大目玉だし、夏休みボケもあるから今日はかなり余裕持って起きて……この調子だと三十分ぐらい早く着いちゃう。俺って真面目」
 高村は左手首にかけた腕時計を見た。美咲は、右腕より若干太いその左腕を、五月のあの日のことを思い出しながら見ていた。
「それは、お気の毒としか言いようがないよ」
 美咲は何気ない話をしながら、どうやって切り出そうか考えていた。
「これだけは大真面目に出席して、ちゃんと聴かないとやばいからな」
「一個ぐらい単位を落としても……」
「美咲ちゃんはそんな大胆なこと言うけど、一個ぐらい一個ぐらいって思って、全部落としたらシャレになんないよ」
「それもそうだね。代わってあげたりもできないしね」
「俺もテニスに逃げたいよ」
 美咲はさりげなく腕時計を見た。時間に余裕を持って来ているらしいが、あまりのんびり構えてもいられない。話題を変えた。
「夏休みはハワイにでも行ってたの?すごく焼けたよね」
 海で片山とビーチバレーをして、水着の美女たちの黄色い声援を浴びて、そしてめでたく運命の恋人を見つけたということは、美咲も後から聞かされて知っていた。お嬢様学校に通う一年生の「メグミちゃん」だと、名前まで記憶していた。
「ハワイ、最高だったよ。青い海に白い砂浜。ぜひおすすめ」
 高村も察したのか嘘に合わせてくれて、近場の海にナンパをしに行ったとは言わなかった。
「ハワイも良さそうだけど、あたしの地元の海も、すごくきれいだよ。田舎だから人が少なくて静かだし、思う存分泳げるよ。そうだよ。あたしの地元に来ればよかったのに。そしたら、いろいろ案内してあげられたのに」
「それはできないよ。のこのこついていったりしたら、美咲ちゃんの彼氏にぶっとばされちゃうよ」
「ついてきてくれて、あんな男、ぶっとばしてほしかった。俺が新しい男だ、文句あるかって、言ってやってほしかった」
 美咲は思わず語気を強めた。本心だった。高村の目が美咲の意図を理解したように、まっすぐ鋭く、だがやさしく見てくれた。
「あの、五分でいいので時間をください。遅刻はさせないから」
 美咲は覚悟を決めて、まっすぐ強い目を返して、言った。
「場所は、あんまり人目につかないほうがいいよね」
 高村は声を静めたが、目を逸らすことはせず、向き合おうとしてくれた。
「すぐ済むので、銀杏の木の陰で大丈夫」
「了解」
 高村はそれだけ言うと、前を向いて黙って歩いた。美咲は今までにないほど心臓の鼓動が大きくなってゆくのを感じながら、高村の横顔を見上げながら、一度でいいからその左腕に自分の右腕を絡ませてみたいと思いながら、並んで歩いた。
 校門を入ると、高村はあの日のことを考えてくれたのか、それとも、比較的静かな場所と日陰の位置を考えてくれたのか、一本目の大樹を選んでくれた。
 高村は足を止めると、美咲のほうへゆっくりと向き直った。美咲は高村の顔を見上げ、一呼吸おくと、その目をまっすぐ見て、言葉を出した。
「予想は着いてると思うけど、きちんと言います」
 高村も美咲の目をまっすぐ見たまま、うなずいた。
「あなたが、好きです」
 高村は目を逸らさず、やさしくうなずいた。
「わかってる。あなたが花枝を好きだったことも、新しい彼女ができたってことも、わかってる。本当は、もっと早く言いたかった。五月のあの日、あたしの帽子が風に飛ばされて、この木の高いところに引っかかってしまったのを、あなたはすごくかっこよく取ってくれた。その姿を、今でもあたしは、鮮明に覚えてる。『帽子が似合うね』って言ってくれたあの時の声を、今でもはっきりと聞くことができる。あたしはあの時から、あなたを好きになった。でも、誤解しないでほしいの。決して、一時の刺激なんかじゃないから。あたしは本気で……」
 美咲の目が潤み出した。
「わかってるよ」
 高村はやさしく言ってくれた。
「ありがとう。あたしの中では、地元の彼氏は、高校を卒業した時点で終わってたの。でも、高村くんに気持ちを伝えるなら、きちんと別れて、まっさらな心になってからにしようと思ってたの。夏休みは、ちょっと長すぎたね」
 ざわっと、緑の銀杏の葉を揺らす、風の音が聞こえた。高村はふと、頭上の葉が揺れる様を見上げた。そして、少しの間風の音を聞いた後、やさしく、だがきっぱりと、言ってくれた。
「ごめんね。美咲ちゃんの気持ちは、よくわかった。けど、応えてあげることは、できない」
 美咲は覚悟はしていたが、いざこうして本人の口から直接言われると、想像以上に深く鋭く、胸がえぐられるように痛かった。
「はっきり言ってくれてありがとう。あたしは、わかってはいたけど、自分の気持ちを言葉にして、きちんと伝えようと決めてたの。言ったらすっきりしたよ。聞いてくれてありがとう。後はもう、忘れてくれていいから。これからは良きクラスメイトとして、普通の友達として接してください。よろしくお願いします」
 こらえていた涙がこぼれ落ちそうになり、見られまいと、美咲は頭を下げた。
「こちらこそ」
 高村は、変わらぬ声で、言ってくれた。美咲が走り去ろうとした時、高村がふと呟いた。
「人が人を想う気持ちって、上っても上っても追いつかない、永遠に終わりのない、らせん階段みたいだね」
 美咲は改めて高村の顔を見た。遠くを見て、何かに思いを馳せるような、そんな目をしていた。
「らせん階段」。意味するところはわかった。高村は花枝を追ったが追いつけなかった。高村を追ったのは自分だが追いつけなかった。そして、自分を追いかける大野がいるが、大野も追いつけないかもしれないし、もしかすると、長い足で何段も飛ばして上ってきて、追いついてしまうかもしれない。もしかすると、自分は大野が上ってくるのを、心のどこかで待っているのかもしれない。でもそれは、卑怯な気がした。高村くんがだめだったから大野くんに切り替えるの?私は大野くんが好きなの?
 今はふられたショックで、頭が正常に働かない。とにかく早く、高村のもとから離れるのだ。
「時間取らせてごめんね。あたしから呼び止めておいて悪いんだけど、先に行くね」
 美咲は潤んだ目で精一杯の笑顔で言うと、走り出した。走っていると、涙があふれ出て流れていった。サークル仲間の集まる学生食堂のたまり場へ行こうと考えていたのだが、建物の中に入ると、真っ先にトイレに駆け込んだ。この際だと思い、美咲は水を流しながらひとしきり泣いた。流せる分の涙を全て流した。しばらくして、洗面所に出て、バシャバシャと顔を洗った。さっぱりしたところに、日焼け止めを丁寧に塗り始めた。こうなることは百パーセントわかっていたので、テニスをして思い切り身体を動かして汗を流して、気分をリフレッシュしようと考えていた。高村への想いを汗とともにきれいさっぱり流して、断ち切ってしまおうと考えていた。

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