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二十年の片想い 21

 21.
「痛っ……」
「楓、大丈夫?」
「気をつけないと。衣装に血がついたら大変だよ。これは市村先輩が着る一番大事な衣装なんだから」
 楓は、演劇サークル「はばたき」同期の川井瑞穂(かわいみずほ)、菊地真央(きくちまお)の二人とともに、冬の定期公演で着用する舞台衣装の製作に当たっていた。場所はサークル第二棟、数ある部屋のほとんどを演劇サークル「はばたき」で使用しているため、通称「演劇棟」と呼ばれているが、その中の狭い一室だ。
 今、楓は、美咲のために時間のかかる宿題をやりに図書館へ行ったままその後の授業に戻ってこなかった大野のことを考えて、作業に集中できず、まち針を誤って指に刺してしまったのだ。
 楓と瑞穂と真央は、「はばたき」のトップスター俳優で主演を務める市村雅哉(いちむらまさや)と、トップ女優でヒロインを務める篠原麗子(しのはられいこ)の衣装を担当していた。三人は夏の公演で脇役たちが着用した衣装も製作しており、その出来ばえに感心した先輩たちが、冬の公演の、しかも主演とヒロインの衣装を任せることにしたのだ。もちろん、市村も麗子も納得している。近代ヨーロッパの貴族という設定上、大変な衣装ではあるが、この三人なら良いものを作ってくれるであろうと、信頼されてのことだ。衣装のデザインは、細部に至るまで市村が決めた。紫色のベルベットの生地や、豪華なレースやリボン、装飾用の金銀のボタンなど、必要なものは全て、先輩たちとともに「はばたき」御用達の店へ買い出しに行き、調達していた。九月、冬の公演に向けた活動が始まると、早々と製作に取りかかっていた。
 普段の稽古は、ジョギングやストレッチ、発声練習など一通りが終わると、「舞台の間」と呼ばれる広い部屋で、監督主導の下、場面の稽古に入る。次の出番を待つ者たちは廊下や外で、個人あるいは数名が組んで、台詞や動作の練習、声合わせなどを行う。ほとんど出番のない一年生などは、衣装や大道具、小道具の製作の続きにかかる。
「危なかった。絆創膏貼ってくるね」
 楓は、瑞穂と真央に言い残すと、会議室兼休憩室として使っている部屋へ行った。ドアを開けると誰もいなかった。棚から救急箱を取り、絆創膏を貼っていると、ドアが開く音がしてびくっとした。
「指、怪我したの?」
 後ろから、聞き覚えのある声がした。市村だった。全体休憩ではないらしく、部屋に入ってきたのは市村一人だった。「舞台の間」での稽古は、市村の出番のない場面に入ったらしい。今日、外はあいにくの雨だった。
「はい、すみません。今後、気をつけます」
 楓は劇の台詞ではない、普段の市村に声をかけられ緊張したが、姿勢を正し顔を見上げて、はきはきと答えた。市村はそんな楓の様子を、探るようにじっと見た。どきっとした。改めて間近で見る市村の顔は、この世の者とは思えぬほど、美しく整っていた。麗しい目でじっと顔をのぞき込まれると、女性のほとんどが、顔が熱く赤くなり、胸の鼓動が大きくなる。
「君は確か、僕の衣装を作ってくれているんだよね」
「はい、すみません。もっと集中して作ります」
 楓も例外ではなかったが、この時点ではまだ理性を失っておらず、市村は自分とは別世界の人間であることを、きちんと理解していた。
「頼むよ、マリー。僕にとっては、大学生活最後の大舞台なんだから」
 市村は微笑んで、役名で楓を呼んだ。どきっとした。人と目を合わせることが苦手な楓ではあったが、市村の麗しい顔、麗しい目は、もっともっと見ていたくなるような、飽くなき美の追求とでもいうのか、自然と楓の目を惹き込んでいた。
「マリー、そんなに僕に見とれちゃだめだよ」
「す、すみません。衣装に戻ります」
 ナルシストならではの本気とも冗談ともつかぬ言葉に、楓ははっと我に返り、市村のそばを離れた。自分でも気づかぬうちに、市村の顔を長い時間見ていたらしい。ふと思った。恋愛感情はなくとも、あの美しすぎる顔を思い浮かべていれば、大野のことなど浮かばないのではないかと。確かに、市村と向かい合っている間は、絆創膏を貼る原因となった大野は、頭の中からきれいさっぱり消えていた。
「楓、ずいぶん遅かったじゃない」
「絆創膏、見つからなかったの?」
「ううん。市村先輩とちょっと……」
 楓の頬の熱は、まだ冷めていなかった。
「え?市村先輩が休憩室にいたの?喋ったの?」
 瑞穂と真央は即座に好奇の目を向けてきた。楓は少し自慢げに言った。
「声かけられて。ちょっとだけどね」
「楓はほんと、ラッキーだよね。マリー役、市村先輩の一声で一発で決まりだもんね。でも、悔しいけど、楓の演技を見て、みんなすごくびっくりしたもん。実は才能があったんだね。あたしなんか、市村先輩の前に立っただけで、最初の台詞が頭から飛んじゃったもん」
「あたしも。市村先輩の顔に見とれて、声が出なくなっちゃった。楓、よく喋れたね」
 楓は人からの「羨望の目」というものを初めて経験した。照れるけれども気持ちの良いものだった。他の女子たちが喋れない市村と、誰もが遠くから眺めるにとどまる市村と、人と目を合わせることさえ怖かった自分が、堂々と向かい合って喋ることができた。楓は、自分が大きな偉業を成し遂げたような気になった。市村が見いだしてくれた自分の「才能」に自信を持った。まるで飛び級でもしたように、自分がまた数段、大きく成長したような気がした。「自分に自信を持つ」。人生において初めてのことだった。
 稽古及びミーティングが終わったのは、午後九時だった。本番が近くなるにつれて終了時刻は遅くなってゆくのだが、九月の時点では九時終了だった。後は個々で居残り練習をしたり、製作途中のものを区切りが良いところまで終わしたりするのだが、今は大抵の者が、終わるとすぐに帰っていた。
 楓は、瑞穂と真央と三人で、駅に向かって歩いていた。
「雨はすっかり上がったね」
「ほんとよかった。あたし傘持ってこなかったから」
「雨上がりのせいか、夜はすっかり秋らしくなってきたよね。風も涼しいし」
「蟋蟀(こおろぎ)の声が、風情あるよね」
 楓は、瑞穂と真央の他愛ない話に相槌を打ちながら、目は少し前を歩くカップルを注視していた。男が女の肩を抱いて、女は男の肩に頭をもたせかけるようにして歩いていた。心臓が、痛いほどに激しく動悸していた。女の後ろ姿には、確かに見覚えがあった。夜でもファッションとして帽子を脱がない。ミニワンピースを着ている。華奢な割には健康的な足で、細く高いヒールのサンダルを履くその姿は、間違いなく美咲だった。ところが、街灯に照らされて見えた相手の男は、大野ではなく別人だった。顔はよく見えないが、大野よりもだいぶ身長が低かった。どういうことなのだろう。美咲の相手は大野であるべきだ。だからこそ自分は、演劇サークルの活動に力を入れ、市村の顔を思い浮かべようとしているのに。だが、いくら見ても間違いない。今、楓の知らぬ男に肩を抱かれて歩いているのは、紛れもなく美咲だ。

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