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二十年の片想い 16

16.
 夏休み明けの最初の授業の日、開始前の教室は、久しぶりに会う友達同士で、どうしていたか、どこかへ行ってきたかなど、夏休みの話題で盛り上がっていた。夏の名残の太陽が、大きな窓から、幾分やさしくなった光を教室全体に注がせ、学生たちの笑顔を照らしていた。
 花枝、片山、高村、そして楓、大野があれこれ喋っていた。楓は内心の動揺を隠しながら、なんとか笑顔を維持していた。そんな中、美咲が教室に入ってきた。
「みんな、久しぶり」
 その姿を見て、五人は一斉に驚いた。美咲は腰まで伸ばしていた美しい黒髪をばっさり切って、お洒落なショートヘアにしていた。五人は、特に大野は、しばらく見とれていた。時にかわいらしく活発で、時にぞくっとするほど色っぽい、妖精のような美しさ、新たな魅力があった。耳に光るシルバーの大きなイヤリングが、美しさをさらに演出していた。色白で華奢だが、しなやかで強そうな身体。白いミニのワンピース。すらりと伸びた細い足。ヒールの高いシルバーのサンダル。同じ色の夏らしいカバン。手には大きな麦わら帽子を持ち、服装そのものは以前と変わりはないのだが、髪を短くしたせいか、身長が少し高く見える。モデルのように美しいスタイルだった。
 ついさっき、楓を「かわいい」と褒めてくれた大野の目は、瞬く間に美咲に奪われてしまった。以前よりも熱い目で美咲を見ている。心の奥底で、楓はショックを受けた。大野はますます美咲を好きになる。やはり、美咲には敵わないのだ。劣等感が増殖してくる。
「何よ、みんな、お化けでも見るみたいに。そんなにへん?」
 楓の心の内など知らない美咲は、驚きの表情で固まった五人に、不機嫌そうな顔を向けた。
「ううん。すごく似合ってるよ。似合いすぎてて、見とれてただけ。でも、あんなに綺麗だった髪を、随分ばっさりと……何かあったの?」
 花枝がようやく口を開いた。
「お察しのとおり、失恋だよ失恋」 
 そう言うわりには、美咲の表情はさっぱりとして、声もはつらつとしていた。「失恋」という言葉に大野がぴくりと反応したことを、楓は見逃さなかった。花枝は恋人とうまくいっている。片山にも高村にも新しくできたらしい。あとは、大野と美咲がくっつけばめでたしめでたし、となる。理屈ではわかっていても、楓は心の奥底に、もやもやした黒い何かがうごめくのを感じた。
「失恋って……だって、結婚の約束までした人だったんでしょう?もったいない。喧嘩別れになっちゃったの?」
 花枝が遠慮がちに声を抑えて聞いたのに対し、美咲は元気だった。装っているのではなく、本当に元気だった。
「あまりにも嫉妬深いから、こっちからふってやった。大学に入って東京に来てからも毎日のように電話してきて、大学で他に男つくってるんじゃないのかって。いくらいないって言ってしつこく聞いてきて……地元に帰って会った時も開口一番、本当に一人だろうな、男連れてきたんじゃないだろうな、だって」
「それだけ深く愛してくれているってことじゃ?」
「あんなの愛じゃない。束縛だよ。高校時代も女子友達にはうらやましいと言われてたけど、他の男子とちょっと喋っただけで怒られるし、男の先生と喋っただけで怒られるし。それで結婚なんかしたら大変だよ。働かせてなんてもらえないだろうし、外出だってスーパーしか行かせてもらえないだろうし、あたしは監視カメラが設置された家で始終見張られて、あ~、そんなの牢獄じゃん。冗談じゃない!」
 美咲には珍しく、語気を荒げていた。
「そんな人なんだ。う~ん、美咲は、その人のことが嫌なのにつきあってたの?」
「最初は好きだった。そう怒られることが愛されることだと思って、幸せだと思っていた。でも、だんだん違うことに気づいてきた。本当は上京する前に別れたかったんだけど、別れないでくれって泣いて土下座して頼まれて、あたしも冷たくできなくて……でももう、我慢も限界だった。これできれいさっぱり、おしまい。やっと自由になれたよ」
 誰一人として、返す言葉がなかった。
「お願いだから、そんなに深刻な顔しないで。あたしはもう、地元のことは忘れたいんだから。後期はもっと楽しい大学生活を送る」
 ぱちぱちと拍手が起こった。男子三人は、美咲の決意を讃えたのだ。
「よし、美咲。人生は長いんだよ。まだまだこれからだよ。大いに楽しもうよ」
「ありがとう、花枝、みんな」
「美咲。大変だったんだね。でも、これからだよね。楽しくやろうね」
 楓は、以前の暗く卑屈な声になりそうなのをかろうじて抑えて、笑顔で、姿勢も正して、はきはきと言った。だが、心にかかった黒い靄は消せなかった。
「楓……ありがとう。なんか、すごく雰囲気変わったね。表情が明るくなったよ。かわいくなったよ。あ、もしかして、彼氏ができた?」
 美咲は相変わらずやさしく、楓を褒めてくれたが、言っている事は大野と同じで、それがいっそう、靄を濃くして大きくして、不吉な感じでうごめくのを止めることはできなかった。それでも楓はがんばって、笑顔を崩さずに答えた。
「まだこれから。今度の劇では台詞のある役をもらえて、演劇サークルの活動もがんばることにしたの」
「そうなんだ。よかったじゃない、楓。あ、前にもらったチケットの日、あたしも花枝も用事があって行けなかったの。今度は絶対観に行くからね」
 美咲も楓の成長を、心の底から喜んでいた。
「ありがとう。十二月だから、まだ先の話だけどね」
「今度は、どんな役なの?」
 大野が何気なく楓に聞いた。ぎくっとした。「叶わぬ恋とわかっていても、密かに熱い想いを寄せる女」だった。実際の自分の心をそのまま映し出したような役なのだが、楓は「違う。私は他人を演じるのだ」と、慌てて否定した。
「貴族の家に仕える家政婦だよ。全部で十人いるから、そんなに目立たないかもしれないよ。あ、台詞っていっても、大した台詞じゃないから」
「一言にせよ、台詞がある以上はちゃんと芝居しないと。応援してるよ」
その微笑みと、その声、やさしさは、今の楓には残酷だった。
「ありがとう。がんばるよ」
 それでも楓は笑顔で答えた。
「秋山さん。聞いてみたいよ、その台詞」
 片山が突如、とんでもないことを言い出した。
「俺も聞いてみたい。ちょっとここで言ってみてよ。興味ある。秋山さんがどんな芝居をするのか」
 高村もノってくる。
「だ、だめだよ。まだ練習中だから、下手だし……」
「あたしも見てみたい。ね、楓。ちょっとだけでいいから」
 花枝も美咲も興味津々の目を向けてくる。
「天才女優、秋山楓さん」
 最後の大野の言葉が最も残酷だった。あの日の、忘れたはずの辛い記憶が、よみがえってしまう。せっかく「恋する乙女を演じていただけ」と考えたはずなのに、恋など初めから存在しない」と考えたはずなのに。憎らしいほどの熱い陽射しが、立ちのぼる陽炎が、アスファルトの熱が、体力のない弱々しい自分が、白いハンカチが……、その先は思い出したくもない。
「あの、ほんとにまだ、台詞もちゃんと覚えてなくて……」
 楓はそれだけ言うのが精一杯だった。そこで運良くチャイムが鳴った。ほっと胸を撫で下ろした。大野を前にしてあんな台詞はとても口にできない。本気だと思われてしまう。大野には、美しさを増した美咲がいるのだ。自分の出る幕はないのだ。楓は強く自分に言い聞かせた。そうしないと、せっかく恋を否定して、「成長」したのに、「明るく前向きで強い」自分に生まれ変わったはずなのに、一瞬にして、木っ端微塵に壊れてしまいそうだった。


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