見出し画像

二十年の片想い 23

 23.
「おい、大野。起きろ。起きろってば。美咲ちゃんが来たぞ」
 大野は片山と高村に揺さぶり起こされ、やっと目が覚めたようだった。
「え?授業、終わったの?」
「とっくにな」
 美咲は授業が終わると、無言のまま仲間五人のそばへ来て、「おはよう」と挨拶だけして、大野の正面に立ったのだった。花枝は心配そうに見ていた。楓も固唾を飲んで成り行きを見ていた。
「おはよう、大野くん。あたし遅刻しちゃって、一番はじっこに座ってたの」
 美咲の笑顔はぎこちなかった。
「またフランス語で言い訳したの?相変わらず大胆だね」
 大野は美咲に微笑み、白地に濃淡様々のブルーの花模様が描かれた袋をビジネスバッグから取り出すと、美咲に差し出した。
「ちょっと重いから。あとは自分の筆跡で、文章はアレンジして書いてね」
 美咲は言葉を失い、花模様を見たまま呆然と立ち尽くした。受け取ってよいものか、ためらった。はっきり断ると決めたはいいが、わざわざ選んでくれたらしい、美咲の好みに合わせたお洒落な花模様の袋は、大野の情熱の強さと、限りない誠意を、そのまま反映していた。
「どうしたの?あの時の借りを返すだけだよ。枚数が少し多いけど」
 大野は美咲に対し、どこまでもやさしく微笑んでいた。明らかに寝不足な大野の顔を見ると、美咲は胸が痛み、いたたまれなくなり、目が潤んで、身体が震えた。
「大野くん……なんで、なんでそこまで……」
 美咲は声を震わせた。今、目の前の大野は、不思議な魔力の持ち主などではなかった。一人の女を強く愛する、まっすぐで一途な、一人の男だった。
「なんでって、わかってるよね」
 確信を得たような目と、落ち着いたやさしい声に、美咲は強い罪悪感に襲われた。申し訳なさと困惑でいっぱいになった。涙をこらえるのがやっとだった。大野はゆっくり立ち上がると、美咲の目をまっすぐ見て、楓が好きなあの声で、青く澄んだ水が静かに流れるような、静かな夜の雨音のような、少し低めのトーンの、耳に心地よいあの声で、美咲に向かって、はっきりと言った。
「俺は、美咲ちゃんが、好きだ」
 その瞬間、楓の中で、ガシャーンと、硝子が割れるような大きな音がした。鋭い硝子の破片は、容赦なく楓の頭上から降り落ちて、楓の頭に、目に、耳に、喉に、腕に、胸に、腹に、背中に、足に、そして心に、ぐさぐさぐさっと突き刺さり、全身が血まみれになり、粉々に砕けそうだった。「俺は、美咲ちゃんが、好きだ」「俺は、美咲ちゃんが、好きだ」大野の声が、鐘の音の余韻のように、いつまでもいつまでも、ぐわんぐわんと頭の中をこだまして、ひどい痛みに襲われた。身体は硬直し、心臓が壊れそうなほど動悸が速くなり、呼吸困難となり、硝子の破片が暴れ回って胃がぼろぼろに破けそうなほど痛んで、額や脇の下に冷たい汗が噴き出て、全身を震えが襲った。
「申し訳ありません」
 美咲は声を振り絞り、深々と頭を下げた。
「何を謝るの?」
 大野の声は変わらない。
「私は、地元の彼氏とは別れました。でも今は他に、つきあっている人がいます。嘘ではありません」
 美咲は頭を下げたまま、はっきりと、だが、涙をこらえて、震える声で、大野をふった。
「美咲ちゃん。顔を上げて」
 大野は表情も声も変わらないが、有無を言わせぬ口調だった。
 美咲はその声に逆らえず、ゆっくりと顔を上げた。しかし、とても目を合わせることなどできなかった。
「本当に、その男が好きなの?」
 美咲は肩をぴくりと震わせた。本能が、大野を選べと言っていた。だが、大野の隣に目を伏せて座っている高村の顔が、坂本の顔と重なる。
──美咲はもう、どこへも行かないよね──
 昨夜の坂本の声がよみがえる。坂本をふることは、してはいけない。
「私は彼のことが好きです」
 美咲は、はっきりと、だが、潤んだ目で大野の目を見た。大野は、美咲の目を探るように、じっとのぞき込んだ。やがて確信したように言った。
「嘘だよね」
 美咲はぎくっとした。本能は、確かにそうだ。だが、もう、遅い。
「嘘ではありません」
「そう。美咲ちゃんがそう言うのなら、きっとそうなんだろうね」
 大野はどこまでも表情も声も変えなかったが、手は小刻みに震えていた。
「でもこれは、俺の精一杯の気持ちだから、素直に受け取ってよ」
 美咲はついに耐え切れず、涙を流しながら、青い花模様の袋を受け取った。本能に背いた罪悪感、大野の想いを踏みにじった罪悪感で、袋はずしりと重く感じた。
「本当に、すみません」
 美咲は袋を抱きかかえたまま、もう一度深く頭を下げると、教室を走り去った。花枝が後を追った。
「泣くくらいだったら、俺のほうがましだろ!」
 大野は美咲の出ていった教室のドアに向かって怒鳴ると、近くの椅子を思い切り蹴飛ばした。楓はびくっとした。椅子は壊れんばかりに激しい音を立てて、教卓にぶつかり、床に落ちた。楓は目をつぶったまま、怖くて震えていた。大野のこれほど激しい一面を初めて見た片山も高村も、驚きのあまり声が出なかった。教室が静まり返った。やがてざわざわと騒がしくなった。「びっくりした」「何?喧嘩?」「美咲ちゃん、泣いてたよな」「大野、こわ……」クラスメイトたちはあれこれ囁き合うと、教卓の前に転がった椅子を逃げるように避けて、教室を出ていった。
「大野……大丈夫か……?」
 片山が恐る恐る、ドアを睨みつけたまま立っている大野に、声をかけた。
「俺の、せい……?」
 高村は目を伏せたまま、一人ぼそっと呟いた。美咲はふられた腹いせにすぐに別な男に走ってしまったのか。大野ではだめだったのか。高村はもちろん、自分に顔が似た人物がいることなど、知る由もない。
 楓は騒ぎが収まっても、目をつぶって震えていた。大野の椅子を蹴飛ばす映像が、脳裏に何度も繰り返し再生された。大野の怒鳴り声が、椅子のぶつかる激しい音が、いつまでも耳から離れなかった。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?