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二十年の片想い 28

 28.
「どうする?大野くんとは離れたほうがいいよね。窓際にいるけど」
 教室の後方の扉が開いて、花枝の声がした。楓は後方扉から一番近い席に座っていた。
「一番遠くに行く。今日は前の席でいい。ありがとね」
 続いて美咲の声がした。花枝と美咲は、すぐ近くにいる楓に目もくれず、二人だけで前方扉側の席へと向かった。美咲の顔は見たくなかったが、あからさまに無視されると、楓は途端に寂しくなった。
「美咲は悪くないよ。そういう運命だったんだよ」
「そうだよね。そうとしか言いようがない」
 しかし、美咲のさらっとした言い方に、楓は嫌悪感を抱いた。大野をあれだけ傷つけておきながら、やさしい大野をあれほど豹変させておきながら、反省もしていないのかと、天使の顔が本当に悪魔のように見えてきた。
「ああするより他になかったんだから。ふるほうはふるほうで大変なもんだよ。例え好みのタイプじゃなかったとしても、まさか面と向かって『あなたは私の好みじゃないから』なんて言えないでしょう?美咲はよくやったよ。頭まで下げて」
 花枝はなぜ、「悪いこと」をした美咲をかばうのだろう。楓はわからなかった。
「椅子を蹴る音がまだ耳に残ってるけどね」美咲談。
「時間が経てば消えるから。ごめんね。夜もつきあってあげたいんだけど、今日はあたしのほうが約束があって」花枝談。
「あたしは大丈夫だから。彼は電話はくれると思うし。花枝のおかげで真面目に授業に出る気にもなったし」美咲談。
 聞き耳を立てる楓はまた考える。電話をくれるというのは、私の知らない、大野ではない、つきあっているという別の男のことだろう。美咲はあまりにも軽薄ではないだろうか。
「川口(教授の名)は厳しいからね。単位をやらないとは脅しだとは思うけど、よほどのことがない限り、出席はしておいたほうがいいよ」花枝談。
「あたし、川口が終わったら……」
「そうだよね。授業って気分ではないよね。あ、でも、大野くんも同じこと考えてるかもよ。ばったり会ったら気まずくない?」
「あ、そうか。でも、大野くん歩くの速いから、あたしは少し遅く出てゆっくり歩いていけば大丈夫かも」
「いつ帰るにしても、大野くんより遅く行ったほうがいいよ。追いつかれて、乱暴なことはしないと思うけど、今日はちょっとね。正直あたしも怖かった」
「今日はとにかく、顔は合わせられないよ。でも明日は……ずっと気まずい空気なんて嫌だな。あたしは大丈夫だけど、大野くんは、簡単に切り替えられるかな」
「Tomorrow is another day.だよ。美咲の好きな映画の台詞でしょう?明日は明日で考えたらいいよ」
 花枝の言葉に、楓はぴきっと硝子の割れる音を聞いたような気がした。大野と美咲は、私には何のことだか意味がわからない、私の全く知らない英語の言葉を、好きな言葉として共有している。

   *   *   *

「何を騒いでいる。いつまでも夏休み気分でいるんじゃない」
 川口教授の怒声とともに、教室はぴたっと静まった。
「では出席を取る。仏文科から。一番、小谷さん」
「はい」
「二番、水戸くん」
「はい」
 教授は、高校時代までとは違って五十音順ではない、学籍番号順で学生一人一人の名を呼んだ。
「十三番、秋山さん」
「はい……」
 楓は夏休みが明けてから、返事もはっきりと大きな声でするようにしていたのに、今の声は、以前の、自信のなさそうな小さなものに戻っていた。教室に響いた情けない自分の声に、楓はようやく目標とする「内面の成長」を思い出した。
「十八番、高村くん」
「はい」
「十九番、片山くん」
「はい」
 番号が進むに従って、楓の中には割れそうな硝子が生じてきた。「私には関係ない、関係ない」と、「言い聞かせ」のスイッチを押した。
「二十九番、佐倉さん」
「はい」
 美咲に続く学籍番号、仏文科三十番の人は、あの男(ひと)だった。どんな声で返事をするのか、もし不機嫌な声だったら、硝子が割れて私の全身に破片が刺さるだろう。いや、私には関係ない、関係ない。私は、強く明るく前向きになったのだ。
「三十番、大野くん」
 硝子が割れてしまいそうだ。いや、関係ない、関係ないのだ。
「はい」
 しかし、思いもよらぬ形で、硝子が割れることはなかった。よく似ているが違ったのだ。大野の真似をした高村の声だったのだ。
「次、英文科、植木くん」
「はい」
 教授は全く気づかぬまま学生たちの名を呼び続け、高村と片山は「大成功」と、密かに笑い合っていた。前に座る美咲も微妙に反応し、花枝と顔を見合わせていた。 
 この授業は仏文科の学生には必修科目だったが、英文科、国文科の学生には選択科目となっていた。
「全員出席。遅刻なしだな。では、今日は先週に引き続き、アレクサンドル・デュマの……」
 楓は、身体も心もずたずたに引き裂かれそうになった、大野から受けた大きなショックや、クラスメイトたちの嘲笑、仲間はずれの寂しさと、友人への少しの不信感、それらを全て拭い去るように、授業に集中して、今まで以上に馬鹿丁寧に、ノートをびっしり書いた。
 授業が終わるとすぐに、予告どおり大野は、高村と片山に軽く挨拶すると、後方扉に最も近い席に座る楓のほうへ向かって歩いてきた。大野の視界には楓など全く入っていないようだった。楓はまた自分に言い聞かせた。「私には関係ない、大野が帰ろうがどうしようが関係ない」と。ところが実際、大野が無言で後ろを通り過ぎて、乱暴に扉を開けて、乱暴に閉めて出ていき、今日二度目の「冷たい無視の嵐の爪痕」を残してゆくと、途端に弱気になった。嫌われたのだろうかと。だが急いで頭を振った。「私には関係ない、関係ない」と、呪文のように繰り返した。しばらくして、美咲が予告どおり、花枝に軽く挨拶すると、ゆっくり歩いて教室を出ていった。

   *   *   *

「あ、楓。ごめんね、一人にしちゃって。寂しかったでしょう?」
 楓がカバンの中に筆記用具などを片づけていると、花枝が声をかけてきた。
「ううん。大丈夫」
 花枝が来てくれたことに対する安心感はあるが、寂しがっていたことを見抜かれると恥ずかしく、楓は笑顔を作ってはきはきと言った。喋れたことに安心した。これが本当の成長した自分なのだと、安心した。
「さっき見てたでしょう?美咲は帰ったよ。とても授業って気分じゃないから」
「そう」
「楓。美咲は大変だったんだよ」
 花枝は楓をとがめるような目をした。
「そう」
 楓は「強く明るい成長」を保った。
「楓。大人にはいろいろあるんだよ。少しは美咲の気持ちも……楓にはわかんないよね」
「あ……」
 楓は自分を「お子ちゃま」と馬鹿にした男子学生たちを思った。花枝もそんな風に私を見ていたのかと、半分はわかっていたが、直接言われると、悲しかった。と同時に、他人への「思いやり」というものが全く欠けていることを指摘され、俄かに恥ずかしくなった。自分では気づかなかった「人間失格」の一面が、新たに浮き彫りなり、ショックだった。
「美咲ちゃんは帰ったみたいだけど、大丈夫?」
 高村が花枝にそっと尋ねてきた。
「高村くんのせいじゃないから。それに、みんなに誤解のないように言っておくけど、美咲は決して、誰でもいいみたいに男にほいほいついていくような子じゃないからね。美咲の新しい彼氏は、同じサークルの先輩で、前から美咲のことを好きだったみたいで、すごくやさしくて良い人だって言ってた。大野くんもそれに負けないくらい、美咲をすごく好きなことはわかってる。美咲への想いが半端じゃないほど強いこともわかってる。それは美咲自身が一番よくわかってる。だからあんな風に、泣いて謝ったんだよ」
 花枝は、美咲の新しい恋人が、高村に顔が似ているらしいことは伏せた。
「誰が悪いなんてないよな。美咲ちゃんには美咲ちゃんの考えがあるだろうからな。大野は、みんなびっくりしたと思うけど、ショックがでかすぎただけだ。普段はあんなことするやつじゃない。頭冷やすって、今日は帰った。時間はかかるかもしれないけど、立ち直れると思う。いつもの落ち着き払ったあいつに戻る日は、必ず来る。あいつのことは俺たちが面倒見るから。また暴れそうになったら必ず止めるから、安心して。美咲ちゃんにも、気にしないように言っといて」
 高村は、自分が美咲をふって傷つけたことに少し責任を感じていると察してくれた花枝を、そして、自分には手の届かない存在だった花枝を、そっと気づかった。
「わかった。ありがとう」
 花枝は微笑んで答えた。
「明日から、二人が鉢合わせして気まずい空気が流れたら、速攻で高村と馬鹿漫才でも何でもやって、明るい雰囲気に持っていこう。大野自身もあんまり引きずりたくないって言ってたし」
 片山は頭の切り替えが速く、花枝のことはすぱっとあきらめ、夏のビーチで「ナンパ」して得た新しい恋人と、新しい道を突き進んでいた。大野や美咲にも、前に進んでほしかった。
「美咲は、大丈夫だって言ってはいたけど……」
「Tomorrow is another day.だ。明日は今日とは違う。二人とも元気になってくるさ」
 片山は楽観的に言った。楓にはその英語の言葉がどうしても気にかかったが、「私には関係ない、関係ない」と、心で何度も呪文を唱えた。
「あ、ねえ。さっき出席取った時……」
「花枝ちゃん、代返気づいた?こいつ(高村)、バーコードじじい(川口教授のあだ名)の前で試そうなんて、よくそんな無謀なこと、とは思ったけど」片山談。
「気づかれなかっただろ」高村談。
「すごく似てるんだけど、あれ?なんか微妙に違うって思って……あ、そうだ。次の授業で美咲の代返、あたしできるかな?」花枝談。
「じゃあ、やってみようよ、花枝ちゃん。先に花枝ちゃんを呼ぶから普通に返事して。次に美咲ちゃんの名を呼ぶから、美咲ちゃんの声で返事して」片山談。
「わかった。やってみる」
「じゃあ、呼ぶよ。ごほんごほん、あー、小谷さん」
「はい」
 花枝はいつものように、地声で返事をした。
「ごほんごほん、あー、佐倉さん」
「はい」
 続いて花枝は、アニメに出てくる子供のような、妙な高い声を出した。
「花枝ちゃん、おもしろい声だけど、ぜんぜん似てないよ」
 片山が笑いながら言った。
「やっぱ無理だよ。声の質が違うもん」
 花枝が答える。
「そっか。あ、じゃあ、秋山さんがやればいいんだ」
 片山は名案とばかりに目を大きく開け、とんでもないことを言い出した。
「私も、無理だよ……」
 代返など、怖くてできたものではない。何より、美咲のために、というところが、どうしても気に食わなかった。楓には美咲の何が大変なのか、まるでわからなかった。何を思いやればよいのか、まるでわからなかった。
「秋山さんはなんたって女優なんだから、どんな声でも変幻自在に出せるんじゃ……」
「む、無理だよ」
「お願い。一回だけやってみてよ。案外いけるかも……」
 片山はしつこかった。
「嫌だよ」
 楓は泣きそうな顔をして、思わず声を大きくして言った。片山は驚き、高村は冷たい目を楓に向けた。楓は恥ずかしくて、下を向いた。
「楓。何もそんなに嫌がらなくてもいいでしょう?美咲にはいつも世話になってるでしょう?」
 花枝はきつくならない程度に、楓をたしなめた。成長したとはいえ、怒声にはまだ耐えられないだろうと。
 楓は下を向いたまま返事をしなかった。どうしたらよいのかわからなかった。
「まあ、代返は結構勇気がいるからな。ごめんね秋山さん。へんなこと言って」
 片山が明るく言ったが、楓は下を向いたままだった。
「お前がやったらどうだ」
 高村が冗談半分で言う。
「いや、男じゃ無理だろ」
 片山が答える。
 高村は、頼まれたわけではないが、親切のつもりで楓の昼食を買ってきて渡したのに「ありがとう」の一言もない楓に、チケット代の足りない分まで思い出してきちんと払ったのに黙ったままお金だけを受け取る楓に、友達を思いやる気持ちがまるでなく、だんまりを決め込むわがままな子供である楓に、そして成長したようで肝心なところが足りない子供である楓に愛想を尽かし、話しかけるのはやめた。
「女装は似合いそうじゃねえか。髪伸ばして化粧してスカートはけば、かわいい女の子に見えるかもな」
 高村が片山をからかい出し、やがて二人の「漫才」が始まった。
「そんな趣味はねえよ」
「いいから、美咲ちゃんの声を精一杯出してみろ」
「美咲ちゃんは、少しハスキーなんだよな」
「じゃあ、呼ぶぞ」
「え?マジで?」
「ごほんごほん、えー、片山くん」
「はい」
 片山はいつもの地声で返事をした。
「ごほんごほん、あー、佐倉さん」
「はい」
 続いて片山は、どこから出しているのか、ハスキーがかった、謎の女声を出した。
「案外、似てるかもよ」
 花枝が笑い出した。
「片山くん。もう一回やってみてよ。いけるかも」
「じゃあ、呼ぶぞ」
 高村も笑いながら言った。
「ちょ、ちょっと待て……」
「ごほんごほん、あー、佐倉さん」
「はい」
 片山は反射的に「美咲声」を出した。
「似てる!」
 花枝と高村は同時に声を上げた。そしてげらげら笑った。
「片山くん、最高」
「お前はやっぱりエンターテイナーだ。本番もそれで頼む」
「そうか?じゃあ、任せとけ」
 片山は得意分野を褒められ、頭を掻いていた。
 三人が笑う中、楓だけが暗い顔をしていた。結局、出席取りの美咲の代返は、片山が行って成功を収め、花枝と高村は声をこらえて笑い、楓は全てを忘れるように授業に集中した。授業が終わると、恋人との約束があるという花枝は先に帰り、高村と片山は特に予定はなかったが、「メシ食って帰るか」と二人で喋りながら、楓の存在など忘れたように学生食堂へ行ってしまった。
 

 

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