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二十年の片想い 31

 31.
 楓はまだ誰も来ていない朝の教室で、フランス語の予習を入念に確認していた。昨夜は、誰も知ることのない大きな悲しみを抱えて、一人悲しい酒を飲んで、初めてのアルコールに頭痛がして、胃がむかむかして、昨日の授業の復習も、今日の授業の予習も、普段のように集中してできなかったのだ。就寝も午前三時とだいぶ遅くなってしまい、今朝起きたのは普段どおり七時だった。四時間という睡眠時間は、楓にとって最も中途半端で眠った気がせず、頭痛も胃痛も残り、体調は最悪だった。しかし、授業を休むなどもってのほかだった。何より、休む理由が実に馬鹿馬鹿しいのだ。朝起きて昨夜のことを振り返ってみて、いかに「自分に関係のない」ことで泣いて悲しんで「酒」という法律違反の飲み物を飲んで体調を悪くするなど愚かなことをしたか、激しく後悔した。情けなかった。自分が恥ずかしかった。従って、そんな理由で休むわけにはいかなかった。
 聞き覚えのある、男子二人と女子二人の笑い声が聞こえた。昨日、あれだけの騒動を起こした大野と美咲が笑い合って喋り、花枝も高村も、何事もなかったかのように、二人に混じって、というより、四人一緒に仲良く笑っていた。頭痛と胃痛と寝不足がなおさら情けなくなった。知られてはいけない。私は、明るく強く成長したはずだ。笑顔ではきはきと挨拶をするのだ。
「おはよう」
 楓は四人に向けて声を発した。
「おはよう、楓。相変わらず早いね。昨日は心配かけてごめんね。あたしはもう大丈夫だから」
 真っ先に声をかけてきたのは美咲だった。心配するどころか、恨むような気持ちを抱いていた自分が、果てしなく醜いものに感じた。しかし「思いやり」の言葉は出なかった。事情を聞こうとすら思いつかなかった。
「おはよう、秋山さん。昨日は怖がらせちゃったみたいでごめんね。頭がどうかしてた」
「ううん。大丈夫」
 楓は「成長」を保った。消し去ったはずの大野の怒鳴り声が、椅子のぶつかる激しい音が、皮肉にも大野のやさしい言葉によってよみがえった。だが、今、目の前にいる大野は、あのようなことをしたとは微塵も感じさせなかった。穏やかな顔をして、やさしい微笑みを見せてくれて、耳に心地よく響く素敵な声で話しかけてくれた。前向きな解釈をすれば、「頭がどうかしてた」ということは、美咲への告白も、その仕業なのかもしれない。そこまで考えて、「私には関係ない。関係ない」と心で呪文を唱えた。
「おはよう、秋山さん」
 高村は挨拶だけをごく普通にしてきたが、何かを探るように、何か疑いでも抱いているかのように、いつも以上に強い、まっすぐな目を向けてきた。
「おはよう……」
 楓は目を逸らさないで、怯え気味の挨拶を返すのがやっとだった。高村のほうから目を逸らしてくれた。何かはわからないが、ほっとした。
「おはよう、楓。相変わらず真面目だね」
 花枝もまた、挨拶はしてくれたが、ふと、高村と同じような、何か疑いを抱いているような目を向けて、すぐに逸らした。
「あたし今日、予習途中までしかやってないんだ。さて、やるか」
 花枝は楓の隣には座らず、一つ後ろの席に座り、A4サイズのショルダーバッグから、教科書、辞書、筆記用具を出した。
「真面目な花枝が珍しい。あたしもやってないけど」
 美咲は花枝の隣に座った。
「美咲。やなヤツだねぇ。自分は余裕だからって」
 花枝はいつものように冗談めかして言うと、フランス語の文の並ぶ教科書の上に直に、辞書で調べた単語の意味を手早く書き込んでいった。
「昨日の夜は、幸せだったんでしょう?」
 美咲は花枝に感謝の目を向けて聞いた。
「焼き肉二千円で食べ放題の店に行って、あたしのほうが森田くん(花枝の恋人)より倍も食べちゃったよ。その後は、あたしのほうが倍も食べられちゃったけどね」
 花枝は予習の手を止めることなく、色を含んだ声で答えた。
「こらっ、花枝!朝からのろけすぎ」
「痛っ」
 美咲はいつものように笑って、花枝に「デコピン」をした。大野と同じことをすると、花枝はふと思った。
「俺も予習してないけど、先週当たったから今週は当たらないんじゃないかな。どう思う?高村大明神様」
 大野は花枝の後ろに座った。高村はその隣に座った。
「“サトちゃん”は予測不能だからな。俺なんか前期に、三週連続で当てられたことがある。油断してるとやばいかもよ。って、俺もやってねえ。大野。半分ずつやんねえ?お前前半、俺後半」
「名案」
 高村は、佐藤という名の教授を、大野がつけたあだ名で言うと、教科書を開き、普段の授業の進み具合から、先週終わったページの数ページ後に後半部分の目星をつけて、花枝と同じように手早く辞書を引き、単語の意味を書き込んでいった。大野も同じように前半部分に単語の意味を書き込んでいった。
「片山は?あいつにも昨日、迷惑かけたし」
 大野が予習の手を止めずに高村に聞いた。
「ゲームにハマって寝坊じゃねえの?」
「そんなにおもしろいのか?俺はテレビゲームってあんまり好きじゃなくて」
「俺もそんなにしないけど、ハマるやつはハマるらしいな。何時間でも続けるらしいぞ」
「だったらレンタルビデオ借りて、映画観てたほうがいいな」
「お前はエロビデオじゃなくて、ほんとに真面目な映画借りるんだってな」
「映画が好きなだけで。そういえば、後期になってから一度もサークルに顔出してないや」
「ああ、シネマ研究会という名の飲み会サークル?」
「所属してることすら忘れてた」
「行ってみたらどうだ?いい女がいるかもよ」
「気が向いたらな」
「大野くんって、サークル入ってたの?どこにも属さないって感じだけど」
 花枝が前の席から、予習をしながら声だけで聞いてきた。
「勧誘されて、名前に惹かれて、それだけだよ。別に真面目に行くような代物でもないし」
 大野も同じように、声だけで答えた。
「最近は何を観たの?」
 美咲が後ろを向いて、大野と高村が予習する姿を眺めながら聞いた。
「一番最近は……サークルじゃなくて個人的にだけど『カサブランカ』かな。何回目だろう?」
 大野は予習の手を止めて、美咲の顔を見て答えた。
「イングリッド・バーグマン、超綺麗だよね。ハンフリー・ボガートはあたしにはちょっとオジサンだけど」
 美咲は同じ姿勢のまま、大野の顔を見て言った。大野は以前と何も変わらない。だが、目はやはり強いような気がした。
「『君の瞳に乾杯』とかいう、キザなやつ?俺は観たことないけど」
 高村も予習の手を止めて、大野と美咲の目を交互に実ながら聞いた。
「あたしも一回だけ観たことはけど、あれ、英語では何て言ってるの?」
 花枝も予習の手を止めて、後ろを向いて会話に参加した。
「Here's looking at you, kid.」
「さすが大野」
 高村は思わず拍手をして、花枝と美咲も続いた。
 楓だけが一人、前にぽつんと取り残された。四人が何の話をしているのかまるでわからず、寂しかった。「かさぶらんこ」という映画があるらしい。どんな映画か観てみたいが、ビデオデッキは持っていなかった。
 クラスメイトたちも集まり、教室も賑やかになってきた。大野がふと教室全体に目をやると、派手な高級ブランド服に身を包んだ、美奈子と理香子と目が合った。二人は同時にびくっと震え、慌てて目を逸らした。大野はそっと席を立った。
「どこ行くんだ?」
 高村が聞く。
「かなり恐れられたみたいだから」
 大野は香水ならぬ「芳香剤」の匂いに耐えながら、美奈子と理香子に近づいていった。逃げ出そうとした二人に、大野は、自分では意識していないが、女性の目から見ると魅惑的なやさしい微笑みと、素敵な地声を以て、やさしく言った。
「昨日は怖がらせてごめんね。頭がどうかしてたから」
 美奈子と理香子は急に顔を赤らめた。大野を見る目が一瞬にして変わった。
「あ、ううん。ちょっとびっくりしただけだから」
「誰だってむしゃくしゃする時はあるよね」
「でも、宿題は自分でやってね」
 大野はそれだけ言うと、二人のそばを離れた。二人の目はさっそく、大野が左手首にかけた青い文字盤の腕時計にいっていた。
 大野と美奈子と理香子のやりとりをこっそり見ていた楓は、ショックを受けた。私に言ったのと同じことを、あの二人にも言うなんて。私の扱いはあの二人と同じなのか。あの二人よりは大野と仲が良いはずなのに。あの言葉は、単なる挨拶みたいなものだったのか。そこまで考えて急いで頭を振り、例のごとく「関係ない」と呪文を唱えた。
 授業が始まって十分ほどが過ぎた頃、バタンと大きな音を立てて、教室の扉が開いた。全速力で走ってきたのか、全身汗だくになり、息を切らした片山が、開けた扉に手をかけて立っていた。
「ハァ、ハァ……ボンジュール、ムッシュウ、サトウ。ジュマペール、ケイスケ、カタヤマ、オージュルデュイ、ジュスィ……電車が遅れまして、パルドン、スィルヴプレ、ハァ、ハァ……」
 片山は謎のフランス語と日本語を混ぜて、必死で言い訳しようとしていた。
「何を言ってるんだ、お前は!」
 佐藤教授の怒声の後、教室内に一斉に笑いが起こった。
「もっと勉強してからまともな言い訳をしろ!まあいい、今日は許してやる。早く座れ」
「おお、メルシィボクゥ!」
 片山は大袈裟に、教授にすがるような目をして言った。再びクラス中がどっと笑った。厳しい教授も、愛嬌たっぷりの片山は憎めないらしかった。片山はよたよたと歩き、大野と高村が座る席の近くに行くと、眠そうな目で挨拶し、大野の後ろに座った。カバンから教科書等を出すなり、「ばてた」と小さな声で呟き、どたっと机に伏した。大野はいつもの穏やかな目をしている、それだけは確認した。

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