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二十年の片想い 26

 26.
 教室を出た楓は、廊下をよろよろと歩いていた。自分でも不思議なくらい、身体が言うことを聞かない。まっすぐ前を見ようとしても頭が上がらない。しゃきっと立とうとしても背中が丸まってしまう。目をぱっちり開こうとしても瞼が重くなる。口角を上げようとしても頬が落ちる。すれ違う学生たちに何度もぶつかりそうになり、転びそうにもなった。
──俺は、美咲ちゃんが、好きだ。俺は、美咲ちゃんが、好きだ。──
 大野の声が頭の中でこだまする。涙が出てきた。泣き虫は返上して成長したはずだったのに。急いでズボンのポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いた。
──泣くくらいだったら、俺のほうがましだろ!──
 初めて聞く大野の怒鳴り声と、椅子を蹴飛ばす姿、椅子がぶつかる激しい音が、頭の中によみがえる。恐怖で身体が震える。あれが大野だとは思いたくなかった。いくら振り払おうとしても、楓を襲った強い衝撃は、いつまでも脳裏から、身体全体から離れなかった。
 楓は涙を拭きながら自分に言い聞かせた。こんなことではいけない。私は、強く明るく前向きになったのだ。他人もだいぶ怖くなくなった。相手の顔を見られるようになった。はきはきと喋れるようになった。私は、成長したのだ。泣いてはいけないのだ。そもそも、大野のことでこんなにショックを受けること自体がおかしいのだ。大野なんて、好きでも何でもない。大野に恋なんてしていない。恋なんて初めから存在しない。従って、大野が美咲を好きだろうが、美咲にふられようが、私には関係ない。そう、大野なんて、私には関係ないのだ。私には演劇サークル「はばたき」という、より成長するための場所があるではないか。
 楓は頑張って涙腺を止めた。歯を食いしばって顔を上げた。
 「はばたき」の活動に打ち込むのだ。とはいえ、今日はあいにく稽古日ではなかった。それでも部室には必ず何人かの先輩部員がいて、駄弁っていたり、仕事をしていたり、個人練習をしていたりするらしいのだが、楓は今まで稽古日以外は行ったことがなかった。思い切って今日行って、先輩たちと喋ってみようか。夏合宿──という名の二泊三日の部員旅行で、今年の行き先は日光だった。──の時のように、笑顔ではきはきと喋れば、大丈夫ではないだろうか。
 日光には、小学校の修学旅行で行ったことはあるのだが、地獄の旅行だった。バスで隣に座ることになった女子が「やだあ、こんなネクラ(根暗)の隣。ネクラ菌がうつっちゃう」と、大きな声で嘆いていた。乗車するなりその女子は、補助席を出して楓から離れ、他の女子たちとお喋りをしていた。楓はぽつんと一人、車窓の外を眺めていた。そればかりか、楓はバス酔いをして、吐いてしまった。クラスメイトたちが一斉に騒ぎ出した。「うわっ。汚ねえ」「くっせー」「ゲロ女。最悪」などと、楓はさんざん罵られた。四十代くらいの女性担任教師は、一応は騒ぎを沈めたが、「どうして酔い止めを飲んでこなかったの!」と、楓を叱った。楓を汚いものでも見るような目で見て、鼻をつまんで吐瀉物を拭いていた。臭いは残ってしまい、窓は全開にされた。クラスメイトたちはみな鼻をつまんで「まだくさい」「こっちまで吐きそう」「ほんと、最低。あのネクラ」などと囁き合っていた。観光名所を何カ所か回ったが、クラスで一番背が低いため一番前を歩かなければならなかった楓は、「さっさと歩けよ、ネクラ」「遅っせーんだよ、ゲロ女」と、後ろを歩く生徒たちから背中を叩かれたり、尻を蹴られたりした。担任教師ですら、「秋山さん。みんなに迷惑がかかるでしょう。もっと速く歩きなさい!」と、楓を叱った。涙でにじむ視界で見たものといえば、アスファルトや砂利の地面だけだった。食事の時間は給食の時間と同じで、楓はやはり一人だった。「また吐かないでよね」とクラス中から言われた。「吐くからやめて」と風呂に入ることもできなかった。そして「お風呂に入らないんだ。不潔」と罵られた。六人部屋はまさに地獄だった。荷物は中身をあちこちにばらまかれ、枕を何度も投げつけられ、「かごめかごめ」をして五人に囲まれて蹴られ、楓は泣き通しだった。「うるさくて寝れないんだよ」と、口にはタオルで猿ぐつわをされた。帰りのバスでは「乗るんじゃねえよ、ゲロ女」と、最後まで中に入れなかった。今度は一番前の席に、不機嫌そうな担任教師の隣に座った。酔い止めも飲んだ。だが、「また吐いたらどうしよう」と不安になっていたら本当に吐いてしまい、またしてもバスの中は地獄絵図となった。旅行後は「秋山ネクラ」というあだ名の他に、「秋山ゲロ子」というあだ名が追加された。
 夏合宿の行き先が日光だと聞いた時、あの悪夢が瞬時にフラッシュバックし、ひどい恐怖感に襲われた。だが、あの時の私と今の私は違うんだと、自分に言い聞かせた。酔い止めをきちんと飲んでバスに臨んだ。同期の川井瑞穂が隣に座ってくれた。瑞穂は気さくに話してくれて、楓は緊張することもなく喋ることができた。酔うこともなかった。少し成長できた自分が嬉しかった。華厳の滝の迫力に圧倒され、日光東照宮の奇妙な派手さに目を奪われた。見るもの全てが珍しく、新鮮だった。
 旅館では、楓は生まれて初めて「飲み会」というものに参加した。同期の女子たちが先輩たちに勧められるまま、ビールやらサワーやらを何杯も飲んでいることに驚かされた。楓は「お酒は二十歳になってから」という法律を、母親の紀美子の言いつけどおり、真面目に守っていたのだ。ただ、飲めば楽しくなりそうなことは見ていてわかった。楓も小さなグラスにビールを注がれたのだが、紀美子に知られたら怒られると恐れ、一口も飲まなかった。酒が飲めないと思われた楓には、別のグラスにウーロン茶が注がれた。やたら賑やかな飲み会の雰囲気に慣れない楓は、しばらくの間、一人でウーロン茶をちびちびと飲んでいた。だが、意を決して部員たちと喋ることにした。そうでなければ何のためにここにいるのだと。まず、瑞穂を含めた十人ほどの輪の中へ、飲みかけのウーロン茶のグラスを持ち、そっと入っていった。先輩に酒を注ぐという発想はなかった。初めはみんなが何の話をしているのかまるでわからず、異様な盛り上がりについていけなかった。それでもみんなの真似をして笑顔を作り、相槌だけは打っていた。怖かった先輩たちが楽しそうに笑っており、ほっとした。初めて「はばたき」のイベントに参加した楓に、同期も先輩たちも、様々な質問をしてきた。楓ははきはきと答えた。
──なんで今まで参加しなかったの?
──お酒は二十歳にならないと、飲んではいけないからです。
──楓って、どこの出身だっけ?
──○○県だよ。
──ああ、○○小町って言うよね。
──それは秋田県だよ。私は○○
──高校時代は、部活、何やってたの?
──何もやってませんでした。
──青空帰宅部ってやつ?見かけによらず、実は結構遊んでたとか?
──いいえ。遊んでいません。
──好きな俳優さんは?
──特にいません。
──音楽は?誰が好きなの?
──誰も好きじゃありません。
──趣味は何なの?スポーツ系ではなさそうだよね。
──スポーツはできません。
──何か楽器を弾いたり、絵を描いたりするの?
──楽器も弾けませんし、絵も描けません。
──じゃあ、読書とか映画とか?
──本も読みませんし、映画も観ません。
──テレビは?
──あるけど、あまり観ません。
──興味のあることって何?
──お芝居がしたくて「はばたき」に入りました。
──まあ、秋山さんは、真面目なんだな。
──はい。真面目にやっています。
 楓は自分の答えが誰の関心を引くこともなく、興ざめされていることに気づいていなかった。これほど大勢の人に囲まれて、初めて喋ることができた。大きく成長できたと、楓は思っていた。
 文学部棟の廊下で楓は、思い切って勇気を出して、売店でおにぎりでも買って部室へ行こう。そう決心して腕時計を見ると、この広大な白鷺大学のキャンパスで、そんなことをしている時間はなかった。午後の授業の開始まで三十分を切っていた。大野の顔を見なければならない、そう思うと、また思い出してぶるっと震えたが、授業をサボることなど、大真面目な楓には考えつかなかった。

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