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二十年の片想い 22

 22.
 翌日、楓が午前の授業の教室に入ると、クラスの者はまだ誰も来ていなかった。楓は迷っていた。美咲が来たら問い質すべきなのだろうか。「昨日の夜、見たんだけど、どういうこと?」と。しかし、盗み見したようできまりが悪い。花枝が来たら相談してみようか。
「おはよう、秋山さん。相変わらず早いね」
 片山が眠そうな目をして来た。
「おはよう、片山くん」
 楓は笑顔ではきはきと挨拶した。まさか片山には言えない。高村にだって言えない。大野にはもってのほかだ。
「ふわぁ……眠い……昨日、ゲームにハマっちゃってさ。やめらんなくなって、寝たのが朝五時。目覚ましが鳴ったんだけど、二度寝しちゃって、やばい、寝坊したって急いで起きて、メシも食わないで走って学校来たら、なんとまあ、余裕すぎた。目覚まし、間違えて一時間早くセットしたらしい。腹減ったし眠いし、ふわぁ……最悪」
 片山はあくびをしながら、屈託なく喋った。
「でも、一時間遅くセットしなくてよかったね」
 楓は、我ながら気の利いた冗談が出たものだと満足した。片山も笑ってくれた。
「そうだな。その時は潔く休むよ。あ、ういーっす」
 片山は他の男子学生が来ると、自ら手を上げて挨拶した。
「おう。珍しいな。カタピーがこんなに早く来てるとは」
 愛嬌ある片山はクラスで「カタピー」と呼ばれていた。
「俺は夏休みボケなんかしないよ。超真面目だからさ。ジョーさんこそ、どうしたんだよ。いつも遅刻ぎりぎりのくせに」
 片山は、城之内という名のその男子学生を勝手に「ジョーさん」と呼び、屈託なく喋った。楓はまだ、大野、片山、高村以外の男子とは喋ったことはなかった。挨拶もろくにできていなかった。
「昨日、ゲームを徹夜でやって、気づいたら朝で、そのまま寝ないで来た。危うく電車乗り過ごすところだった。超眠い」
 城之内は楓になど目もくれず、片山だけを見て話した。楓は何度も喉まで「おはよう」が出かかったが、声にならなかった。成長課題はまだまだある。
「ああ、お前、どこまでクリアした?」
 それまで楓と喋っていた片山も、城之内と二人で、楓には何だかさっぱりわからないゲームの話で盛り上がっていった。
 次第にクラスメイトたちが「おはよう」とぽつぽつ入ってきて、教室は賑やかになっていった。
「ういーっす」
 どきっとした。大野が来て、片山と城之内に挨拶した。
「おお、大野が珍しく早い。今日は雨が降る」
 片山は大袈裟に言った。
「毎日チベットから二時間以上もかけてご苦労だな」
 城之内も気さくに大野に話しかけた。大野が住んでいるらしい田舎町を「山奥のチベット」と冗談半分でからかっていた。
「チベットはいいぞ。星がきれいで」
 大野は変わらぬ落ち着いた口調で、軽く受け流していた。
「ロマンチックなこと言ってやがる」
 城之内は笑った。
「お前も徹夜でゲームか?」
 片山が真面目な顔をして聞いた。大野も眠そうな目をしていた。
「徹夜で勉強。今、電車で立ち寝の訓練中」
 大野も真面目に返した。片山は察した。
「まさか、英語の宿題、終わったのか?」
「あんなの、ちょろいもんだ」
 大野は余裕そうに答えた。
「マジで?」
「終わったって……一日であれ全部訳したのか?」
 片山も城之内も驚きの声をあげた。
「信じないのかよ」
 大野は黒いビジネスバッグの中から、訳した文を裏表びっしり書いたルーズリーフの束を取り出した。
「げっ。そんなになるのかよ」
「それ、何枚あるんだよ?」
「二十五枚。全訳だからな」
「何時間かかったんだよ?」
「五時間ぐらい」
「はあ?五十ページの英文を、たったの五時間で訳したぁ?」
「マジで?さすが大野だな。すげえよ」
 片山も城之内も、尊敬の目を大野に向けた。
「両面コピーがちょっと面倒だった」
 大野はさらに、コピーしたものが入ったらしい、A4ほどの大きさの、白地に濃淡様々なブルーの花模様が描かれた、洒落たビニール製の袋を、ちらっと見せた。美咲のためにプレゼント用の袋をわざわざ買ったらしい。
「すげえ。そこまでやったのか。それなら美咲ちゃんも黙っていられないだろう。絶対お前のこと見直すって」
 片山が励ますように言った。
「お前、美咲嬢と喧嘩でもしたのか?」
 事情を知らない城之内が、大野と美咲はすでにつきあっていると思い込んで──クラスの大半の者が、夏のあの日、大野と美咲が二人並んで遅刻してきた日から、そう思っていた──聞いた。大野は答えなかった。
「ま、人生いろいろ、女もいろいろだ。な」
 片山は、プライドの高い大野の、決して仲間以外には知られたくないであろうデリケートな部分を冗談で誤魔化し、大野の肩をポンと叩いた。
「今日は何色だろうな」
 城之内がニヤニヤ笑いながら言った。それは、美咲のスカートの中のことを言っていた。ミニのワンピースを着ていることが多い美咲は、階段の下から見ようと思えばいくらでも見える。また、足を組んで座る癖があり、しかも無意識に何度も組み替えるので、その度にクラスの男子学生たちは、自然と美咲の足を凝視した。美咲自身は何も意識しておらず、決してわざとでもなく、見られても気に止める様子もなかった。楓にはほど遠い「色気」だった。楓は性的なものに対して嫌悪感を持っていた。楓にはいつもやさしい美咲だが、嫌なところは、白く艶めかしい足と「色気」だった。楓はいつもズボンをはいていた。
「そういう邪念を持って女子を見るのは、いかがなものかな」
 片山は、今の大野は城之内に飛びかかりそうだと考え、冗談めかして城之内を戒めた。
「何だよ偉そうに。お前だって見てるくせに」
「今後は心を入れ替えて……」
「白が七割、ピンクが三割、他はない」
 大野がさらりと言ってのけた。片山はほっとした。大野が怒りを抑えている様子ではなかった。
「さすが大野。毎日脱がせてるだけあるな」
「ジョーさん。大野は超真面目でね。女の子の手を握ったこともないんだよ」
「ああ、俺は超真面目でね」
 三人の会話を聞いていた楓は、胸がずきずき痛くなってくるのがわかった。大野は、楓が何日もかかってやっと終わした宿題をたった一日でやり遂げた。そのこと自体は大いに尊敬する。五時間とは言っていたが、目の下に隈を作った大野の顔を見る限り、それ以上に時間をかけ、徹夜になったと思われた。訳そのものは図書館で五時間でできたかもしれない。おそらく、自宅に帰ってから、美咲に渡すために間違いのないよう見直して完璧なものとし、字も丁寧に書いて清書したのだろう。
 しかし、当の美咲は、大野のそんな苦労も知らずに、昨夜、別の男と「いちゃついて」いた。美咲はやはり、天使の顔をした悪魔なのか。これほど大変な翻訳を、自分を真剣に想う男を利用してやらせ、自分は他の男とつきあう、ひどい悪魔なのか。真面目な大野にまで性的な話をさせるほど、ひどい悪魔なのか。大野が美咲のスカートの中を見ていたとは、楓には大きなショックだった。
 やがて教室にほぼ全員が揃い、城之内は片山から離れ、普段から仲良くしている他の男子学生たちのもとへ行った。
 花枝と高村も来て、二人とも大野の偉業に驚いた。
「すごい大野くん。たった五時間で全部訳すなんて」
 花枝は純粋に、大野を尊敬した。と同時に、報われない苦労の痛ましさを思った。
「さすが大野だな。俺も昨日、真面目にやろうとして、五ページくらい読んで挫折した。なるほどな。ご丁寧に美咲ちゃんのためにコピーまで取ってあげて、そんなかわいらしい袋に入れて、プレゼントみたいだな。美咲ちゃんに伝わるといいな」
 高村は、敵わぬ頭脳の持ち主に、少し嫉妬の混じった目を向けた。だが、美咲のことに関しては、大野がうまくいくことを祈っていた。昨日、美咲と花枝は文学部棟のロビーで何やら深刻な顔をして話をしていた。何か緊急事態でも発生したのだろうか。午後の授業の教室に来た時、美咲は思い詰めた顔をしていた。大野はおそらく昼食も食べずに、授業の時間もずっと図書館にこもり、美咲のために頭をフル回転させて翻訳に当たったに違いない。夏休みに「ナンパ」になど最初から行く気はなかったのだろう。美咲だけを一途に想っているのだろう。
 そして美咲は、遅刻寸前に教室へ入った。だが、五人の仲間には近づかず、目を合わせようともしなかった。一人離れて座り、真面目に教授の講義を聴き、ノートを書いているようだった。
 昨夜のことが後ろめたいのだろうか、逃げているのだろうかと、楓は思った。
 大野は授業の間、机に伏してずっと寝ていた。

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