可能的なもの

ベルクソンの存在論についての覚書

■はじめに――存在論

アメリカの哲学者、マイケル・ハートの『ドゥルーズの哲学』(法政大学出版局、田代・井上・暮沢訳、1996)を読んでいる。そのうちの第一章「ベルクソンの存在論――存在の肯定的な運動」をいちおう読み終えたので、覚書として内容を整理しておきたいので書きました。

……のはいいのだが、ハートによる説明でも難しいところがあり、よく読んでも分からないものは頭の中でスルーして、自分で噛み砕けたところだけ書きます。

第一章「ベルクソンの存在論――存在の肯定的な運動」は、ベルクソンの哲学(『物質と記憶』や『創造的な進化』などを書いてノーベル賞を受賞したフランスの哲学者)をドゥルーズが研究書としてまとめた、『ベルクソニズム』(法政大学出版局、檜垣訳、2017)という本の議論を下敷きにしています。ベルクソンを読み解くドゥルーズの態度、その意義と限界を著者のハートは記述しています(ここで簡単に、「ベルクソンを読み解くドゥルーズ、ドゥルーズがベルクソンに共感している状態」を”ドゥルーズ=ベルクソン”と書くことにします)。

さて、「ベルクソンの存在論」という表題からも分かる通り、ドゥルーズはベルクソンの哲学から「存在論」を見出します。ところで存在論とは何か? 簡潔に僕なりに言えば、それは「存在の仕組みを解明しようとする合理的な説明」のことです。”存在の仕組み”とは何かという疑問は残りますが、それはちょっと後回しにしましょう。

ベルクソンの哲学から「存在論」=存在の仕組みの解明が見いだせる。そしてその存在論を基礎づける、根本的に構成するのはとりもなおさず「差異」(英語で言うところのdifference、要は”違い”です)という概念なのです。《差異》が存在の根拠にある。これを出発点としている節がドゥルーズ=ベルクソンにはあります。

 では具体的に、「《差異》が存在(論)の根拠である」とはどういうことを指すのか。存在とは、それ自身において「異なっている」というアイディアをベルクソンは採用します。存在は常にズレを孕むというという考え方。つまり、安定的な「存在」などはなく、存在とは動態的なものである、とここでは考えておきます。時間的変化、空間的移動ということを鑑みても、存在(者)が動態的であるというのは頷けるでしょう。存在は静態的なものではない。

■2つの差異概念

存在は常にそれ自身とズレている、そのズレ(差異)のことを「内的差異」とベルクソンは呼んでいます。ところで、《差異》には次の2種類があることをベルクソンは説明しています。それは「本性の差異」と「程度の差異」です。そして「本性の差異」は「程度の差異」に勝る。”~は程度の差異にすぎなかったのだ。”などという言い方をドゥルーズ=ベルクソンはしています。

次が肝要なのですが、「本性の差異」は時間という次元に関係します。たとえば、目の前に1つのリンゴがあるとして、2時間が経過するとそれは誰かによって食べられて腹の中に消えてしまったとします。これが時間の経過です。それに対し、「程度の差異」は空間の次元に対応します。バットでボールを打ったらボールはA地点からB地点まで移動した、みたいな感じですね。そこで、時間の経過は「本性の差異」を形作るが、空間的な移動は「程度の差異」でしかない、距離が変わったにすぎない、というような考え方をベルクソンは採用します。

そして、時間という次元からはベルクソンの重要な概念である『持続』というものが結晶します。対して、空間という次元からは『物質』が演繹されます。ベルクソンの《持続》という概念についてはここでは詳細を省きますが、ベルクソンは時間の哲学者でもあったとここでは言ってよいでしょう。彼は”時間”という概念を精査し、《持続》という概念を基礎づけとして、そこから”物質”(空間)を定義づけたりしていったのです。

 ドゥルーズの(ベルクソンを通した)考えでは、《存在》の根拠は《差異》であるということを先に書きました。そして、存在は、それ自身における差異を含んでいる。そこから、漸く次のような問いを立てます。「存在の仕組みはどうなっているのか」、つまり、「存在はどのようにして在る=生成するのか?」、と。ここがこの第一章におけるキモです。それを《存在の差異化》と呼んでおきましょう。どうやったら存在はそれ自身とつねにズレるような、動態的な《存在》の概念へと結晶するか。

■存在の差異化

まずベルクソンの回答。ベルクソンは、それを「直観」(内的な動力のことらしいが詳しくは僕も分かっていない)や、「生の躍動エラン・ヴィタールという概念枠組みで説明します。エラン・ヴィタール、生の躍動とは、”生(命)が自らにもたらす内的な爆発力”のことを指します。

 ここからはドゥルーズの回答ですが、その前に、補助線を引きます。さきほど、ベルクソンの考えである《本性の差異》と《程度の差異》の区別というものを説明しました。《程度の差異》は、空間の次元に対応します。

ところで、空間というものは、(直線、楕円、立方体などのように)図式化が可能なものです。これを念頭に入れておいてください。

 ドゥルーズは、《存在の差異化》というプロセス(どうやったら常にそれ自身とズレる=異なる《存在》が生成、発生するのか)に関して、次の対比を出します。 1、「可能的なもの possible ―実在的なもの real」という枠組みで考えてはダメだ! 2、その代わり、「潜勢的なもの virtual、ヴァーチャル」――「現勢的なもの actual アクチュアル」という枠組みで考えるのが良い! としています。

 ドゥルーズによれば、可能性とは、実在していないあらゆるものの可能態のことです。”いくつか選択肢があった中で、A君はB子に告白することを決めた……”という時の、ほかの選択肢のことです。この場合、A君がB子に告白することを決心した(そして、実際にしたのでしょう、おそらく笑)ことだけが実在的 real リアル なのです。このとき、全ての選択肢の中において、「B子に告白する」という選択肢がリアルなものになった、という事ができます。ということは、”全ての可能性(態)”は大きな円のようなもので、その領域内において「実在的なもの」が立ち上がったのです。そう、「可能的なもの――実在的なもの」はこのように簡単に図式化してしまえるのです。

可能的なもの


■因果律は採用しない――

 《存在の差異化》のプロセスは、この「可能態が実在的なものへとなる」という説明をとうてい受け付けえません。なぜ「B子に告白する」という選択肢だけが実在することになったのかを、結局のところうやむやにしてしまうからです。

 そうではなく、ドゥルーズは「潜勢的なもの virtual ヴァーチャル」と「現勢的なもの actual アクチュアル」の対概念を使用しようと提案します。ヴァーチャルなものとは、ここでは過去や記憶の中、つまりは”時間”の次元に属するものらしいです。Actuallyとは「実際に」などと訳しますね。

ヴァーチャルなものが、いったいどやってアクチュアルなものへと生成するのか。それをドゥルーズ=ベルクソンは、「創造」や「創造的進化」という言葉を使って説明しようとします。

さて、その肝心の《創造》や《創造的進化》とはどういうことか、を説明する段なのですが、僕はとてもそれを今回は記述できません。よく分からないし、もっとドゥルーズやベルクソンについて勉強しないと書けない。しかし、以下の事は補足しておきたいと思います。

 ドゥルーズの仕事の第一に、「哲学史」に対するドゥルーズなりの批判と継承というものがありました。主に彼はスピノザ、ヒューム、ニーチェ、ライプニッツ、そしてベルクソンといった哲学をかなり自分の血肉としています。長い(西洋の)哲学史の中には、当然他の多くの哲学者たちがいますが、ドゥルーズはそのなかで幾つかの仮想敵を形成しながら、彼らをうまく批判することによって自説へと発展させたり、若しくは補ったりしました。

 プラトニスム(プラトン主義)はその仮想敵のひとつです。そして、ドゥルーズはさきほどの「存在の仕組み」、つまり《存在の差異化》の説明として、仮想敵のプラトン主義による説明を引き合いに出します。そこでは、プラトン主義においても《差異》から存在や生成といった概念を説明しようとする点をドゥルーズは認めます。しかし、プラトニスムはそこで、”善”なる理念という”目的”に従って存在は発生する(?)、というような説明をするのです。つまり、”目的因”――原因(手段)と結果(目的)という因果律を採用している。おそらくドゥルーズはこの原因――結果という因果律の思考枠組みに異議を唱えています。ひとつには、原因――結果という因果律は、単線的な時間の概念に頼ってしまっているというのもあるでしょう(物理的因果の法則)。しかし、マイケル・ハートの小難しい記述を読んでいると、どうもドゥルーズが因果律という思考枠組みを拒否したのは、因果律が、「原因は外的な操作・介入によって結果(効果)を産出する」という考えに陥ってしまうことにあるからだと僕は思いました。原因→外的な介入→結果、という「外部を持ち出す思考」。これでは到底《存在の差異化》を説明することができない。なぜなら、存在の差異とはもっともっとそれ自体において説明されるべき、あの《内的差異》にほかならないからです。《存在》は(《差異》という)あくまでそれ自身の”原因”――自己原因?――によってのみ、説明されるべきだと。


 ここまでです。最後は難しくなってしまいました。また、ハートの『ドゥルーズの哲学』を読み進めて手書きのノートがまとまったら、ブログにすると思います。

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。