海へのゆき方

 飲み疲れて目醒めたら、もう朝焼けだった。そんな晩が二度つづいた。
 五分遅れた時計が六時半を示していて、私は慌てて風呂を沸かす。交換したての真新しい給湯器のリモコンは、追い焚きのボタンを押すと嬉しそうな声で鳴いて、ランプを灯す。飲み残しのウイスキーをシンクへ捨て、今はまったく生真面目な私であるが、酔いどれの晩にはまたそれを惜しむことを知りつつも、氷の溶け切ったその上で一度ぬるくなったようなウイスキーにふたたび口をつけることは、どうしたって躊躇われた。アル中なりのプライドというものがあるのだ。
「今日は仕事に行きたくないなあ。」
 誰もいない部屋の白い広がりに向ってつぶやく。
「今日ほど仕事に行きたくない日はないよ。」
「それ、いつも言ってるじゃん。」
「ほんとのことだよ。」
 気づけば私はピカチュウのぬいぐるみと会話していた。よし、君に決めた。
 まだ湧き切ってない風呂に浸かり、歯磨きをし、二番目にお気に入りの服を着て、私は車のキーを掴んだ。
「行こうか。」
 助手席に君を乗せて、発車した。ステレオから尾崎豊が流れる。
 朝の町は見事に静かだった。部活動へ勤しむ中学生の姿が時折眼につくばかり。彼らのシャツはまだ真っ白だった。一年生だろうか。
 優しい陽射しが贖罪へ変る頃、私はいつもの交差点を左に曲がった。
「ちょっと、会社そっちじゃないでしょ!」
 君の丸い瞳がそう訴えかけるようだ。
「いいんだよ。」
 私はそのまま走り続けた。訳もなく走り続けた。やがてぼやけていた風景がはっきりとして来るのが判った。町も眠っていたのだ。もうすぐ月曜日の朝が終る。
「少しお腹が空いたな。」
 しかし、いつのまにか差し掛かっていた山道には人家もほとんど見当たらず、店などあるはずもなかった。ここさえ抜けてしまえば……そんな思いで、竹林沿いの道をひたすら走るけれど、道はどんどん細くなるばかり。
 と、木漏れ日がいやにフロントガラスに突き刺さりはじめた。陽がのぼったのか。細く開けた窓からは、森のにおいがむんとなだれ込んで来て、一遍に健康になる気がした。
 ——海だ。海が見えた。小さな町を隔てて、青い海が覗いている。
「よかったねえ、途中、何度引き返そうと思ったことか。」
 私は窓を全開にして、見知らぬ町の空気を吸った。なんだか知らないけど、良い町だ。きっとそうだ。
 ちょうど小さな商店を見つけたので、そこでサンドイッチを買った。それから海辺に車を停めて、サンドイッチを齧る。レタス、ハム、玉子、それから……。
 潮風が私の身体を包んだ。私は空を飛んだ。ような気がした。海にもぐった。ような気もした。なぜだか季節が早回しになって、私をどこかへ連れ去ろうとしているように思えた。ふいに大人になったような、それでいて子供に戻ったような……。それは私にとって幸福にはちがいない。自由にはちがいない。
「帰ろうか。」
 もう充分だった。助手席に君を戻して、私はまたハンドルを握る。
「会社、休んでよかったの?」
 君は口元の微笑を崩さないままに語りかける。
「いいんだよ。だって今日、はじめから仕事休みなんだし。」
 これが私の休日の過ごし方である。

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