深淵

 労働による荷重を背負う肩はとうに痺れ、すっかり毎日の苦痛と幸福とが渾沌としているこの頃、夏はあっけなくぼくに背を向けて、季節はすっかり秋になった訳だが、休日の朝の物憂さは変わらずぼくにつかみどころのない焦燥を与える。それでなくとも今朝はブルー。金曜の晩には定例の、友人宅に集まっての貧乏宴会はいよいよぼくと友人とのふたりきりになって、テレビでバラエティ番組を流しながら、手製の簡易な肴をつつく。ビール、焼酎、ウイスキーと続き、梅酒でひと息つこうかと思惟した折には、既にアルコールは飽和状態だった。友人宅を出たのは午後十時。それからの記憶は半分。帰り着いたぼくは酔い覚ましの冷や水も飲まずに、なだれ込むように布団へ倒れ込んだ。……つもりなのだが、コンタクトはちゃんと外していたみたいで、それも手洗いの要る二週間用だ。目覚めたぼくは吐き気とうつろさと、それから何故か全裸でいるのに狼狽しながら、しかし空が白んでしまえば余計に脱ぎ散らかした服が発見されやすいだろうし、同室で眠っている母の意識の戻らないのを願いながら、勢いよく布団を、部屋を、飛び出した。片手に抱えた衣類の中に、ちゃんと昨晩履いていたはずのパンツとシャツと、あるのを認めて、安堵する。余程暑かったのだろうか。ぼくには幼い頃から、もちろん酒など飲んでいなくとも、たとえばひどい疲労に打たれた夜や、風邪引いて熱を出した夜など、ときどき夢うつつながらに服を脱ぎ出した事例が幾度かあるのだ。それはぼくの中の数少ない病的な部分のひとつで、もとより服飾に於て、さまざま身につけるのは嫌いなぼくだ、お風呂の時間が何より楽しみなぼくだ、服を着ていることそのものが鬱陶しく、解放への願望の体現されたものであるとも云えるから、単なるお茶目な失敗と捉えるのはいささか親身に欠ける。とはいえ実家暮らしだ。このような失態を犯して、笑い話で済まされる齢もとうに過ぎた。果たして成人男性の羞恥は、一向に見苦しいものであるのがこの世の定めだ。あらゆる罪悪をも愛によって迎えられる幼少期や、少々の痛手は苦笑いと教育とで事なきを得る青春も、はるか遠い季節のこと。

 さて昼過ぎ。着替えと歯磨きとを気怠く済ませ、引出しの奥から通帳取り出してポケットに差し、ぼくは車に乗り込んだ。ドライブ、でも、デート、でもなく、単なる買い出しだ。見れば燃料もほとんどない。ちょうど財布の中身も空で、銀行で下ろすつもりだから、ガソリンも今日入れてしまおう、などと考えつつ、カーステレオから流れる村下孝蔵を口ずさむ。ATMには誰の人影もなかった。ぼくは通帳を開いていれ、まあ、三万円くらい下ろしておこうか、今週は出費の予定もあるし、など思えば、見たこともない文言が画面にあらわれ、次いで紙切れが吐き出された。「残高不足」。つまりはそういうことだった。ぼくの暮らしもこれまでか……、と観念しながら、薄給、浪費癖、ううむ、未来は暗い……。それからドラッグストアへ。おおよその食品、生活用品はここに揃っている。おまけに安い。若者らしからぬぼくの行きつけの店は、他でもないこのドラッグストアなのだった。納豆、鰹節、刻みネギ、と、籠に入れ、酒と菓子のコーナーから目を背け、そそくさとレジへ向う。支払いを済ませ、袋詰めをしていると、すぐ傍らの、入口付近にあるガチャガチャの前で、小学校低学年くらいの女の子三人組が、なにやら思案している。リーダー格らしきひとりの娘が手に千円札を持ち、ガチャガチャの機体を睨みながら、強い口調で何か問いかけている。それに対し、隣りの眼鏡の娘は、「ここ、両替できるのかな。」などと、冷静な様子。ちょうど客も途切れたレジのおばさんへ向って、女の子、「両替できますか!」と駆け寄る。「はいはい、できますよ。」おばさんは嬉しそうに千円札を受け取る。「全部百円玉でいいのかな? それとも五百円一枚入れる?」おばさんは丁寧な気配りを見せる。「百円でいいんじゃない?」「そうだね。」「いや、やっぱり五百円一枚入れてください!」意見はリーダー格の娘の鶴の一声でまとまった。さて、女子小学生をこんなに熱中させるものは、一体なんのキャラクターなのかしら、帰り際目をやると、それはぼくでも知っている「コップのフチ子さん」だった。ぼくもひとつ持っている。飾っていればなかなかに小洒落ているし。彼女ら、案外、大人びた趣味をしているのだ。子供がみんな、馬鹿みたいに判り易いものに群がる時代は終ったのか……。

「○○フチ子、出るかなあ。」「大丈夫、同じの出たらリサイクルショップで売ればいいから。」女の子って、タフだなあ。

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