夢なのに

 秋は深まりやがてこの季節。十二月ともなれば人はみな忙しなく、ぼくだけが取り残されたように今年が終わろうとしている。年末年始の予定など、みな口々に話し合っているところであるが、ぼく自身どうして時が過ぎるのか判らないまま、夜は寒く、炬燵布団に潜り込んでどうにかやり過ごしている。暗くてここから動きたくなくて、肴が尽きても瓶の中に残った赤ワインをただただ啜り、顔は赤らみ息は白く、それでも身体は一向にあたたまる気配がない。
 思い起こせば夏はやはり恋しく、今になっていちばん夏の曲のしみる季節が来たと思った。夏はいつでも爽やかで凛々しくてあどけない。甘くて苦しい季節である。夏がどうして切ないのかを、回顧するにあたって、青空、砂浜、土手沿いの路、草むら、放課後、夕焼け、ぜんぶ好き。みんな好き。どうしてぼくはここにいるのか。いつからぼくはここにいるのか。考えても考えてもつながらない。あの頃歩んでいた線路の先に、今があるとはどうしても思えないのだ。今は今で、幸せだったりするけれど、捨てられなかったりするけれど、あの頃はどうして……。
 よく笑った。よく泣いた。ときどき胸が苦しくなった。センチメンタルを知っていた。過ぎることを望んだときも、止まって欲しいと祈ったときも、みんなひっくるめて青春。情報強者を気取りたくて毎日パソコンに向い、そのうちにぼくはパソコンの中でさえ懐古の種を探し、四畳半、それから、昭和、苦学生、安酒、なんて、そんなこと、空想のロマンでしかなくて、読み耽った純文学の最初の一文に惚れ、ノスタルジーが絶頂を迎えた。ぼくは失敗したのか? 確かに走っていた体操着の白さ。砂煙。セーラー服。スカーフ。教科書。給食当番。ぼくの家の真隣りに公園がある。春には桜が咲く。或る三月にクラスの女の子がその桜の花弁の落ちるあたりの坂道の降り口に腰掛けて、恋の話をしていた。それをぼくは盗み聞きしていて、ふいと風が吹いて、カーテンが舞い上がって空が見えた。夕闇だった。月が出ていた。ねえ、何してるの、なんて云いながら妹が入って来て、お前、今入って来ちゃ駄目だなんて、慌てて止めた頃のぼくはもういない。そうしてあの頃が何年前だったかを思い出すのに指をつかうぼくは、もう思い出すことしか出来ないあわれな金魚のようでもある。

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