苛まれて

 料理が出来るようにならなくちゃいけない。将来結婚でもしたときに、何もかも奥さんに任せて寝転んでいるような夫には愛される資格がないと思っているから。それでなくともぼくには経済力がないのだ。せめて美味しいご飯でもって奥さんを迎えてあげることが出来たなら、結婚生活の方も幾分明るい方向へと舵を切るのではないかという思慮があって、ぼくはこのごろ初めてフライパンを握り始めた。今日はパスタをつくったのだ。ぼくの好きなトマトソースだ。レシピを見ると案外簡単で、どうにか人並みにつくることが出来たように思う。これからもっと色々な料理を試して、そうして誰にでも素知らぬ顔で振る舞うことが出来るまでに熟れてしまわなければならない。そうしなければぼくみたいな男は、孤独につきまとわれて終ってしまうことが簡単な数式の答えみたいに導き出されている。
 そうして酒が回り、半額の菓子パン齧りながら電氣ブラン飲んでいる最中のこと、窓を開けるとたちまちぶうんと鈍い羽音。それが蜂でも蝶々でもないことは経験から云って間違いのないことであった。ぼくの部屋にはある昆虫が忌まわしく取り憑いているのだ。それはもう十年近くに及ぶ。ぼくはあれの顔を見るだけでぞっとして、座っていられなくなる。かといって自ら処理するほどの度胸もない。いつだってぼくはあいつがこの部屋に飽きて出てゆくのをじっと息を殺して待ち続けることしか出来やしなかった。今夜もまたあいつはぼくのまだ求めて半年の、ホーロー仕立てのレトロな電燈の、その釣り鐘に止まったのだ。
 ちくしょう、ぼくは凍殺と書かれた、割高な殺虫剤持ち出して、思い切り噴きかける。部屋は霧が立ちこめたように白くなる。これくらいすれば十分だろう。あいつは動かなくなった。それでも不安なぼくは、もうひと噴き。それから、普通の殺虫剤も、戒めに続ける。高いところだから、落ちて来て飲みかけの電氣ブランの中にでも落ち込んだら大事だ、そっと周りに袋を広げて、丸めた新聞の先でつつく。袋に、入ったか。そうしてあの独特の悪習が立ってきた。最後まで、厭なやつだ。
 初めての一仕事は済んだ。回したブルーレイのラピュタは、いつのまにかラストシーンを迎えて、ぼくの夜はそう穏やかでないまま更けてゆくのであった。

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