夜はひとりがいいんです

   撰ばれてあることの
   恍惚と不安と
   二つわれにあり
            ヴェルレエヌ

 太宰の本を開いて閉じた。それを読むには私はあまりに酔い過ぎていた。また、夜が来たぞ。私は選ばれずに今日まで来た。時には選ばれたこともあるけれど、選ばれ損なってまた夏が来た。かつて私がはしゃぎ回った畳の部屋は、今では母親の仕事場になっているし、妹をあやしたあのベビーベッドは誰かの元へ行ってしまったし、その妹でさえ、もうすぐセーラー服を畳む季節の上にいるというんだから、時の流れには感服せざるを得ない。
 街の灯りが美しいのを見もせずに、私はそれを想像して涙する。いつからこんなセンチメンタルボーイになっちゃったんだろう。月の光も今日はささない。時計の針に足かけて、ああ、どこまでも駆け戻ることが出来たなら……叶わぬ夢はいつもノスタルジアの標本箱の中にある。丁寧に仕舞われたそれは、私のいやにはっきりとしたこの掌に載せるだけで、すぐにこわれてしまうだろう。ボロボロの夜の羽根になって、風に散ってしまうだろう。
 口笛ふいて懐かしく、あの日の夕焼け、それから日没、紫のアスファルトにあの娘の影を見て門限やぶった頃のこと、私は思い出していた。その渚で。船が行き過ぎたような気がしたが幻だった。汽笛が鳴ったような気がしたが海鳴りだった。涙していた私の頬を伝った川が、やがて海に流れ着いて、波が高くなった。この海を泳げばどこまで行けるのだろうか。どこかへ辿り着くのだろうか。
 私は埃っぽい四畳半の部屋にいた。机の上で色褪せた洋書の表紙を撫でながらウイスキーを飲んだ。青空がどこかへ消えた午後六時に、網戸越しに飛び込む少年の笑い声を聞いた。青春とは、なんだろう。チェリーコークの空き缶の中に、ひとつくらい隠れていやしないかしら。懐かしい人と話すことは今の私には気分がよくて、まるでタイムマシンに乗ってるみたい。そんな夜です。うふふ、もう一杯。

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