あのレコードが聞こえたら

 ずっと、考える子供でした。親の言葉も、友達の視線も、好きなあの子のウインクも、その裏に潜む幾つかの意味を汲み取ろうと、あどけない顔して懊悩する子供でした。人はどこかで間違ってしまう生き物です。それが十歳なのか、十五歳なのか、それとも二十歳なのか、そんなだけの違いで、いつかは間違ってしまうものなのです。だから私が特別にあの青黒い病におかされて、それきり立ち直れずに大人になったのかと云えば、それは少し違います。私は普通の道を歩いて、そうしてここに辿り着いて、これからもこの道を歩いて行くはずなのです。私はあの頃となんにも変わっちゃいません。考える子供でした。今は考える大人です。忙しくても立ち止まって、ときどき、こうして考えることをしなければ、私は自分がただの死んでいないだけの肉体のように思えるのです。テレビを消して、電気を消して、ストーブの赤だけが目にうつるこの部屋で、いつか流行った歌謡曲を耳に挿して、懐かしさにぼろぼろと何かを崩されながら、私の金曜日は終わります。この埃っぽい部屋をこれから私は愛すのでしょうか。もう、あの部屋に帰っても、私の好きなものたちは幾つか連れ去られて、そこここに淋しさが漂っているでしょう。あちらも淋しい、こちらも淋しい。私の部屋はどこにもなくなってしまったみたいな気がします。朝陽のまぶしい部屋でした。窓の大きい部屋でした。柔らかいソファーと大きなテレビがありました。大好きな本とお酒と音楽が、積み上げられた押入れと、Tシャツの詰まった古い箪笥と、テーブル、絨毯、青いカーテン、今でも全部、書き写せます。大好きだったあの部屋。じっとしていることはとても安らかで暖かかった。飛び立つために今、私は走り出したのには違いありません。だけど風を切るのはあまりに冷たくて、それに崖の淵まで辿り着くにはまだまだ距離がありそうで、なんだか両の脚がもう震えて、疲れきっちゃいそうな情けない始末です。考えれば、考えるだけ、憂鬱になると判っていて、それでも考えちゃうのは、やっぱり私が私だからなのでしょう。

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