海が燃えて

あなたの髪はとてもいい匂いがする。それは別段花の香りがするんでも、果実の香りがするんでもなく、ただあなたの匂いがして、ぼくはそれが好きなんです。座り心地に長けたくたびれた革張りのソファみたいに優しくて安心する。顔を埋めたらもう二度と帰って来られなくなるような、帰らないことを選びたくなるような……。
ここで死にたいと思った夜があって、山際の小さな部屋の、水色の浴衣は雨に濡れて、僅かな自販機の灯りと町の灯りと、それから星はでらでらぼろぼろ。ぼくの頭を小突いては叱るのだ。君たちはどうか明日へ向かわなければならないと。
酒を飲み過ぎたのはぼくの弱いせいだ。照明の暗いのも、夜明けの近いのも、全部ぼくのせいだ。ぼくはあらゆる残酷なことを隠さずに来てしまった。不始末はハートランドの空き瓶よりも凶器に近くて、手元が狂えば血を流す。血の匂いはあたらしい春の訪れの気配がする。初春の匂いだ。初春はいつも淋しいばかり。春と朝と、未来と夢。明るい言葉のそれぞれは、目を背けようもないほどにはっきりとしていてぼくを逃してくれない。でもいいんだ、春が来れば、やがて夏が来るんだからさ。そうしたらぼくは、もう飛ばなくて済むような気がするんだ。

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