621マイル
伸びた感傷の影があの時計台をつらぬいて、気付けば夕暮れだった。今ここに立っている訳が、ぼくには判らなかった。ただ着慣れぬスーツの肩は降り始めた雨粒を載せてまだら、やがてそれは陽が沈むように黒くなった。
靴音が響くのは終着駅のホームを降りて、信号の明滅だけが息をしている孤独なY字路だった。一時停止をして、そのまま動けなかった。いつの間にぼくは大人になったんだろうか。振り返ってもあの頃のぼくはいない。ここまで来てしまった……そうして、これからどこへ向うのだろう。未来が頭上を掠めて甘い夢を攫って行った。
泣きながらロマンス。胸元についたファンデーションが、かつて新緑の丘で追い回したルリシジミの鱗粉のよう。狼狽えて、天を仰ぐ。銭湯の煙突の先に二重瞼の星を見た。それはぼくをじっと睨みつけていた。
眠れない晩があって朝にも寝床は泥のようで、カーテン越しの陽射しさえ意味を成さない情のもつれ合いに部屋はいつまでも薄暗かった。起き出して風呂に浸かった頃には浴槽でぼんやり見上げた壁のタイルにひとつの黴もなく、換気扇の音だけがぼうぼうと静けさを押しのけていた。
飲みかけの日本酒を飲み干したら一遍に夜が来たような気がした。或いは久しく点けていないテレビの画面がそう惑わせているのかもしれなかった。ぼくは都会にいた。もう怯えることはないみたいだ。都会の夜は、あかるいのだから。ぼくはただヒロインの声でオリビアを聴きながら、近づきつつある夜明けを待ち侘びるのだった。
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