時計のないバーで

「もしもあの頃に戻れるなら。」
 そんな嘘みたいな話があるはずない。あるはずなんてないけれど、あなたはまるで素面の顔で、そんな名前のカクテルを、私に教えてくれたのだから、
「タイムマシン。」と一言で、グラスに色のないお酒。
 口をつければ舌がしびれて、目がまわり、胸がぼうっと燃えるよう。ゆらゆら揺られて、流されて、歳月は壁中に貼られたジグソーパズルのように私を困らせる。

 目覚めた場所は向日葵畑だった。1998年のような気もしたし、2014年のような気もした。空が紫だったから、夕方なのは判ったけれど、どこにいるのか誰といるのかひとつも判らない。鏡がないから自分が今何歳の頃に戻ったのか、それともまったくの別人に生まれ変わっているのかも判らなかった。とにかく向日葵かきわけて歩いた。
「ねえ。ちょっと。」
 おどろいた。麦わら帽を深くかぶり、少女は唇の右の端で笑った。誰かに似ている気がしたが思い出せなかった。
「あなたは私のこと知ってるんですか?」
 少女は答えず、ただ私を見て、それから空を見て、宙返りした。

「狐にだまされたんだよ、きっと。」
 そんな夏の思い出を、あなたは信じるはずもない。私は夢を見ていたのだろうか。あの名前のカクテルは、ほんとはどこにもないのだろうか。
 過去に戻れるなんてこと、信じない人はきっと、過去に戻る必要がないのだろう。
 やり直したい幾つもの場面の三叉路で私は立ち往生して、あっちへ行けば夏が来る、あっちへ行けば冬が来る、だけど、夏と冬って、どっちがいいのかしら、って具合。
 駄菓子を隠したポケットを、ふいに転んで打ちつけて、くだけたビスケットの数をかぞえていたら終る人生もある。青春もそれに似ている。過ぎた日々を挽回しようと、躍起になって絵具を持ち、あざやかな色で日常を塗りつぶして行くことは、未来への反抗である。あなたはセピアの色を知らない。

 忘れられないことと、忘れられることの境でさまよいながら、私は今日も夢を見ない。掌からすべり落ちていった砂のかけらは、私がとうにやめてしまった旅路の映し絵である。手を洗って、それから拭いて、面影はみななくなってしまった。あの日のカクテルを捜して、私はネオンサインの方へ歩いてゆく。

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