病床にて

よくない夢を見た。目が醒めているにもかかわらず。その夢の一端は夕刻の路地裏で、あの店のいつもの席でナンシーの赤いマニキュアが光った。ぼくはその店を一度だって訪れたことはないし、吸い込まれそうな路地裏の夜の気配に臆病になって、通りから少しのぞいたばかりで過ぎてしまったのが精々だ。だけどその席がナンシーのいつもの席なのはすぐに判った。何故ならナンシーはその座り心地の悪そうな椅子にさえ、吸着されたように自然でいたからだ。そうしてマニキュアは真っ赤なものだった。その爪の先を優しく撫でる男がひとり。それはナンシーが心から信用している男に違いなかった。彼の唇が動いて、おそらく彼女の名を呼んだ。ネイティヴだった。ぼくはいつだったか年月が情熱を溶かしてしまう現場を見た。思い出の数だけ人は煌めきを持ちうるのだ。ぼくにしてそれは決定的に欠けているもののように思われた。ぼくの記憶のほとんどが、一度も色褪せることを知らずに派手な絵の具に塗りたくられたものであったし、それらを思い出と呼ぶにはまだ情熱の香りがぷんぷんと漂っているのが知れた。ぼくは唇を噛んで、噛みちぎった。二度とナンシーの名を呼べないように。そうして夢は終わりを告げようとしていた。目の奥が熱を持っている。立ち上がることすらままならない。ぼくはこのまま曜日を喪ってしまうと思った。寝床は汗にしめっていた。蜜柑を幾つも剥いて食べた。寒い寒い夏が来たような気がした。

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