残されたあおみどり

 1980年代が終る頃、山奥の小さなコテージを借り切って、男女六人、陽気に踊った夏があった。彼らはみな一流企業の工員で、流した汗水それ以上に、懐のふくらむ時代の上にいた。
 恋をしていたA子とヒロシ。A子は明るく才色兼備、人にまみれて育ったけれど、実はまだまだ少女であった。対してヒロシは幾分歪んだ環境の中で青年期を迎えたわけで、いつでも煙草をふかしては、騒がしさの中で暮していた。時々星空を見上げては、判ったように溜息を吐くヒロシは、少女のA子には詩人に見えた。それがすべての始まりだった。
 幾ら眩しい時代と云えど、そこは田舎、互い朴訥な面を隠せぬまま心外にも健全なまま逢瀬を重ね、会社ではまるで単なる友人の振り。誰も気づかぬまま季節は変りなく笑い顔で過ぎた。
 或る日の土曜日、夜更けだった。件のバーの片隅で、柄にもなく飲み過ぎたヒロシを、酒にめっぽう強いA子が半ば介抱の身で、思わずべったりと手を握ってしまった。空いたグラスの滴が落ちて、つんと瞼を閉じたA子が次に瞼を開けたとき、口元に飲み慣れぬ甘いカクテルの香りが広がる。そのキスは責められなかった。A子の飲みかけのギムレットそのままに、店を出て、夜を急いだ。季節は突然に春から夏へ変わった。そうして冒頭に戻る。
 あの時父ちゃんが、酒さえ飲んで帰って来なかったら……、ぼくの好きな歌謡曲の一節にそんな台詞があって、ぼくは尋ねたこともない両親の馴れ初めを勝手に空想したりして、ともかく焼酎がよくないのだ。飲み過ぎた焼酎。磨りガラスに藍色の水彩落したようなグラスの中に、注がれたガスライト。ぼくはどうにも明日が怖いらしい。空想をやめちまうのが怖くて往生際悪く、いつまでも書き連ねて。
 今ではときどき物憂げな顔する母が、そんなヒロシに騙されて、ぼくと妹がこの世に生まれたのかと思うと、ぼくは何故だかありもしないと思っていた運命というやつを少しは信じてやろうと云う気になるのだ。

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