評価される小説の実写化とは

 前回の記事でコミックの実写化について考察したが、今回は小説の実写化についても考えたい。

 先日、映画『マスカレード・ナイト』『劇場版 ルパンの娘』を鑑賞してきた。どちらも原作は小説。そしてどちらも続編である。ということは、1作目が評価されたから、続編が作られた、という事である。

 小説の映像化の場合、コミック程ハードルは高くない。なぜならコミックには原作の視覚情報が既にファンの中にはあるが、小説は読者の想像の中にあるだけだから、である。

 しかし、小説の実写化の場合、肝になるのは、その脚本である。例えば文庫本一冊を2時間の映像にしようとした場合、小説の通りにやったら尺が収まらない。文字の情報量は多い。大体の小説の映像化は、その小説のエッセンスを凝縮し、時にはエピソードを削ぎ落とし、再編成している。

 だからこそ、小説の実写化で必要なのは、脚本家の腕である。
 先に上げた2作品は、とても両極端な作品だ。
『マスカレード・ナイト』は、原作者の東野圭吾が、脚本作成に携わり、原作者の意図のもと、再編成されたので、これは文句の付けようがない。そして、さらに人気ある演者を揃えれば、一定の評価を受けるのは既定路線だろう。

 一方、『ルパンの娘』の方は、というと、最初のドラマ化の時から、大胆すぎる改変が行われていた。
 それは、ドラマ用に付け加えられたより大袈裟なキャラクターの性格であったり泥棒衣装であったり。極め付けはオリジナルキャラクターである、円城寺輝の存在だ。彼は、日本のドラマ市場類を見ないほど完璧に、ミュージカルシーンをやってのけたのだ。私も最初見た時は驚いた。日本の映画で、ミュージカル映画の作成も近年少しずつ広がってきているが、それでも大ヒット、と言われるものは海外の作品が主だ。日本人が劇中でいきなり歌い出すのに、まだ違和感を持つ人は多い。なんで今歌うの?と白けてしまう、と言っても良いかも知れない。
 それを、『ルパンの娘』では、連続ドラマでやってのけた。これは、危険な賭けだった筈だ。そもそも原作はミュージカル要素の一端も感じられないし、そもそもミュージカルを挟む必要性はストーリーからは感じられない。(本当に、原作者の横関大氏はよくこれにGOサインを出したものだ。)
 しかし、それが見事にハマったのだ。ロミジュリをベースにしながら、コメディ要素が満載で、簡単に言えば、馬鹿らしい、何も考えずに観れるドラマ。その中でのミュージカルシーンは、思わずなんで!?とツッコまずにいられない。しかし、なぜかそれが癖になるのだ。それは今までのドラマの常識に囚われない、円城寺輝というキャラクターを演じた俳優・大貫勇輔の実力と、ドラマ中の歌にカラオケ字幕(歌詞テロップ)を出す、という、あり得ない演出をした制作チームの力が合わさり、そのあり得なさ、振り切り加減が逆に視聴者にヒットした。

 前回の記事で、コミックの映像化では原作の想いを真摯に汲み取る姿勢が必要だ、とまとめた。が、今回の『ルパンの娘』はどうだろう。原作のファンからしたら、「勝手にオリジナルキャラ入れるなんて!」「原作にミュージカルの要素ない!」と、怒りを覚えても良い筈だ。だが、そう言った声が少なかったのは、コミックの実写化と違って、「ドラマと原作は別物」と捉える人が多かったのか、「これはこれで面白い」と受け入れられたか、のどちらかではないか。完全な憶測だが、私は後者なんじゃないだろうかと考える。

 二つの作品は、アプローチは真逆である。原作に忠実に映像化した『マスカレード・ナイト』。原作にない要素で大いにドラマを装飾した『ルパンの娘』。だが、やはりどちらの作品も、原作の根幹の伝えたいことをきちんと読み取って、それを誠実に映像化している、という点が共通していると思うのだ。『マスカレード・ナイト』は、観客の犯人像の思い込みを逆手に取ったトリックと、犯人がそこに至るまでの苦悩。『劇場版 ルパンの娘』は、泥棒と警察、というロミジュリ的な悲恋。そこを、きちんと丁寧に描いている。

 逆に、原作を大幅に改変して酷評される作品というのは、その原作への理解が足りていない、と感じるものだったりするのだ。

つまり、結局のところ、評価される実写化作品とは、原作の伝えたい想い(=根底にある想い)を、愛を持って真摯に伝える姿勢がある作品かどうか、で決まるのである。

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