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歌を忘れたカナリヤは

本来書くことが好きで、自分のこころの思うままに書きとめていたし、書かない日はほとんどなかった。毎日のシャワーのように考えずとも、必ずするという自分の習慣になっているもの、そんな感じであったのに、いつの間にか書かないことが習慣となっていた。

SNSの類には書くけれど、私が今まで書いていたのと類が違う。もちろん私の言葉で私の思いや考えを綴るのだから、書いていないわけではない。だけど、書いていない。(言葉遊びのようだ、、、)

個人事業主になり、自分で自分の商品を作るとなった時、今までのようなただの趣味嗜好で書くだけでは訳が違ってくる。趣味で好きなことを仕事に、価値提供がそこになければ、ただの日記。そのようなことをどこかで聞いて、知らないうちに意識しすぎていたのだろう。私は以前のようにか書かなくなっていた。

アメブロでブログを書いていたのは7年ほど。そのうちの最初の5年は起業前で、割と自由に思いのたけを綴ったり、趣味に思い切り走った内容だけを記していた。楽しかったし、日課でもあった。

起業をしてからは、アメブロは起業家ばかりとか、アメトピに載る方法とか、それはそれで一つの手段なのだろうけど、広告もついたりだとかがちゃがちゃした感じがどうも好きになれず、しばらくしてnoteへお引越しした。

それから!今までのペースのように書くことがなくなって、気づけば数年すぎていた。

なんのためのブログ?なんのためのお引越し? そういったものを今ひとたび自分のなかでクリアにする必要があると感じている。

なぜだろう。詩人の西條八十歌の「かなりや」が今朝からずっと脳内をリフレインしていた。


「かなりや」作詞:西條八十

歌を忘れた カナリヤは うしろの山に すてましょか
いえいえそれは なりませぬ
 
歌を忘れた カナリヤは 背戸のこやぶに うめましょか
 いえいえそれは なりませぬ
 
(略)
 
歌を忘れた カナリヤは 象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 想いだす



幼い頃、母や父によく童謡を歌ってもらっていた。その中の一つがこの「かなりや」で、幼心にかわいそうな小鳥を思ったものだ。(この歌を思うと、3-4歳の頃に住んでいた、祖父母の所有していた谷戸の家を思い出す。記憶は時空を超え、私の肉体以外の全てのものは、そこに集結する。)

ちなみに「かなりや」は漢字で書くと「金糸雀」。金色の糸のすずめ、と書く。そこでなぜそのような表記になったのか、ときめきが止まらない。調べてみると、その由来はカナリアの原産地であるアフリカ西部でスペイン領のカナリア諸島にあるという。スペイン語やポルトガル語の canariaから来ているらしい。(英語だとcanary)  「金糸雀」の漢字表記は、「美しい黄色」に由来する漢名が当てられたとのこと。

ああ、ここにもスペイン、ポルトガルと西の方の場所が出てきた。(去年の今頃、スペインのアンダルシア地方に旅して、そこからついでと足を延ばしたポルトガルに旅情を今も強く感じているのです。スペイン語に至っては毎日Duolingoで学び直し中。)

さて、このカナリアの歌詞から、

うたを忘れた金糸雀も「月夜の海に浮かべれば、忘れた唄を思い出す」ように、忘れていた好きだったことや自分らしさは取り戻すことができる、というメッセージを受け取りました。

本当、いきなりやってくる歌とか言葉には訳があるのですね。そのようなことも日々あったとしても、流れて行ってしまう。こうやって以前のように覚書さながら書いていこうと思う。



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