文鳥10年超え

10年以上、文鳥と暮らしています。

そして毎日、文鳥の匂いを嗅ぎます。

くんくん♪なんてかわいいもんじゃなく、本気嗅ぎです。

文ちゃんが、これが愛情表現なのかにゃ?と戸惑い、

わたしの鼻にくちばしを突っ込んでくるほどです。

「それってイヤだってことなんじゃないの~?」

と思うでしょ?

わたしも最初はそう思いました。

しかし、どうも興味津津なのです。

当然息を吸うので、くちばしがちょっと吸われますね。

それがなんとも心ひかれるらしいのです。

そうして毎日、「○○ちゃーんだいすきだよぅ~~♡」

と言いながら文ちゃんの匂いを嗅ぎ、

文ちゃんは淡々とわたしの鼻にくちばしを突っ込みます。

鳥はどうやらペットとしてはそれほどメジャーではないのですね。

なので、鳥がそんなに感情表現するのかしら?

とよく聞かれますが、人間並みだと思います。

言い過ぎました。

人間並みでないとしても猫さんやワンさん並みに、表現がお上手です。

10年以上も文鳥と暮らしていますと、つらい別れがたくさんありました。

その大半、鳥専門の病院にお世話になり続けております。

先日、先生がこんなことを言いました。

「ペットを飼うなんて、子供を育てるのに比べたら、

大したことじゃない。一緒にするな、って言う人もいるよね。

だけど、病気持ちのコ(ペット)を抱えていたら、

結構お金かかるし、面倒もみなきゃいけない。

程度の差は確かにあるけど、大したことじゃない、とは言えないよね。」

と。

そして、

「ペットを飼う、ということは、死に向き合う、ということでもあるよね。」

と。

文鳥の最長寿命はだいたい14年くらいかな、と思います。


死ぬときは様々である。

自分が寝ているとき、ひっそりと逝った子や、

運よく看取ることができた子。

一理の望みをかけて病院に入院させ、

病院で亡くなった子。

家庭内の事故で死なせてしまった子…。

十分に生きてくれたね、と思う子もいれば、

もっと生きさせてあげたかった子もいる。

それは、人間も同じではないだろうか?

「自分のペットが危篤状態になって、

究極の選択をしなくちゃいけないときがある。

大きなリスクを背負って手術をするか、

あと10日の命でも、家で一緒に過ごすか。

そのどちらも選択できない飼い主がいる。

誰かに決めてもらいたい。と言う。

でもそういう人に限って、

やっぱりこうするべきだったんじゃないか?

と後で考えを巡らせて、前に進めない。

だけど、決断できなかった飼い主の代わりに、

決断をしたひとがいる。

誰が決断をしたとしても、その決断はその時できる最善だった。」

わたしは苦い経験がある。

一理の望みをかけて病院に入院させた子だ。

それはわたし自身が決断したことなのだけど。

病院の、誰も知っているひとがいないところで、

死なせてしまったことが。

そして、そもそものところ、

病気持ちだと知っていながら、

元気だから、この子が自分を置いて逝ってしまうなんてことあるはずない、と、ちょっと遠い病院に連れていくのを億劫がったことが。

たとえ家に連れて帰ってきていたとしても、

後悔したかもしれない。

病院に通っていても、長生きはしなかったかも。

それでも後悔する。

そしてまた、その後悔が、

今の子たちに活かされている、と思う。

活かしたいと思っている。

「それはたとえば大事な人を看取るときも同じ。

決断しなくちゃいけないことってあるでしょ。

そういうとき、ペットで経験した決断という経験が、

活かされることもあるんじゃないかって思う。」

決断することも、看取ることも、免疫がつく、と。


そんなことない!やっぱりペットと人間を一緒にしないで!


という方もいらっしゃるかと思いますが。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?