島崎藤村

「理想の父親像」としての受容 ―島崎藤村「嵐」論―

【構成】

 一 はじめに
 二 新たな父親像としての「私」
 三 時代背景
 四 作者の世間でのイメージ
 五 まとめ


 一 はじめに

  子供等は古い時計のかゝつた茶の間に集まつて、そこにある柱の側へ各自の背丈を比べに行つた。次郎の背の高くなつたのにも驚く。家中で、一番高い。あの兒の頭はもう一寸四分ぐらゐで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮に、郷里の方から年取りに上京して、その時だけ私達と一緒になる太郎よりも、次郎の方が背はずつと高くなつた。

 島崎藤村の「嵐」(『改造』第八巻十号、改造社、一九二六年九月)の冒頭の叙述である。この小説は、主人公である「私」による叙述からなる。妻を亡くした「私」と四人の子供達、そして二人の下女が登場する。長男太郎が帰農後のある年、兄弟たちが柱時計に集まり各々背丈を記している場面から物語は始まる。
 親子は七年暮らした窮屈な住居から、大きな家に引っ越そうと借家を見て回っていた。父である「私」は、自分よりも高くなった次郎を眺めながら、自分の老いを感じ入り、過ぎし歳月を振り返る。関東大震災や米騒動など社会不安も増す中、兄弟喧嘩も絶えない状況で、私が洩らした「家の内も、外も、嵐だ。」という台詞に関して、発表後様々な解釈が繰り広げられた。その中の一人、瀬沼茂樹は「大正デモクラシの家の外の嵐」と「『新生』事件からの身上の嵐」、「作者の心に吹いてきた嵐」のほかに、「子供たちの喧嘩騒ぎ」という四つの「嵐」が作品に内在していると論じた。 「嵐」は前作「新生」で巻き起こった嵐に直結して理解されるのが一般的であり、平野謙は「正しくは『嵐の跡』とでも呼び名すべき」 とさえ評した。
 このように、先行研究には、「嵐」の意味するものや、作者の実生活との照合、前後の著作との関連性を考察したものが多い。また主人公の「私」を作者の藤村自身に置き換えて読んだ当時の文壇からは「心境的小説の極致」 だと絶賛された。他方では、「嵐」を発表した翌月の『改造』の「編輯後記」に、「我々は雑誌編輯に十年近く當つているが文壇以外の社會人からかくの如く歓呼された小説は始めてであつた。」 という記述があるほど、「嵐」は文壇という世界を越えて高い評価を博した。当時なぜ「嵐」は文壇だけでなく、一般大衆からも人気を勝ち得たのかについて、作品を独立して取り上げ、論じたものは少ない。そこで、当時の時代背景を基に、「私」の子に対する向き合い方という観点から、世間における「嵐」の受容のされ方を検討したい。


 二 新たな父親像としての「私」

  私が早く自分の配偶者を失ひ、六歳を頭に四人の幼いものをひかへるようになつた時から、既にこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供等を託して見、置いて見たが、結局父としての自分が進んで面倒を見るより外に、母親のない子供等をどうすることも出来ないのを見出した。不自由な男の手一つでも、どうにか我が兒の養へないことはあるまい、その決心に到つたのは私が遠い外國の旅から自分の子供の側に帰つて来た時であつた。

 上記の引用は、「私」が子供達と一緒に暮らし始めた頃を回想した場面である。「嵐」の主人公である「私」は作者の藤村と設定が重複するため、藤村と子供達の関係を年譜で確認しておこう。

 大正元年に四十一歳の藤村は、身の回りの世話をしてくれた姪のこま子と関係を持ってしまい、それを断ち切るために翌年フランスに旅立つ。大正五年に帰国し、大正六年から「嵐」が執筆された大正十五年まで子ども達と生活を共にする。帰国するまでずっと向き合いもしなかった子供たちに突然向き合い始めた契機となったことは具体的に描かれていない。しかし、この引用箇所から分かるように、「私」が子供等を引き取ったのは「子供を自分のもとに置いておきたい」というような積極的な理由からではなく、「父として」の責任を取って、「面倒を見るより外に仕方がない」という消極的な理由からであったことは明白である。

 「私」が子供達を引き取ってから、男手一つで子育てに邁進する中で、「私」は「次第に子供の世界に親しむ」ようになった。「年若い時分には私も子供なぞはどうでもいゝ」と考え、「反つて手足纏ひだぐらい」にしか思っていなかったが、「子供の世界」を観察する「私」は、遊びにも「流行」があるということ、どの子供にも「性質の違い」があるということに気が付く。「やゝもすれば兄を凌がうとする」次郎を抑えて、「何を言はれても黙つて順つてゐるやうな太郎の性質を延ばして行く」ことに「私」は苦心したり、同じ美術の道を進む次郎と三郎の「性質の違い」が、互いに悪影響を与えないように「二人の子供を引き離し」たりと、子供達一人ひとりの性質を考慮し、個別最適に、そして平等に育てていこうとする意思が伺える。

 「子供の世界」に親しむようになった「私」は、子供達の「性質の違い」に気付き、それぞれに合った成長を取り計らうようになるが、「私」が子育てで苦心したのはそれだけでない。「餌を拾ふ雄鶏の役目と、羽翅をひろげて雛を隠す母鳥の役目とを兼ねなければならなかつたやうな私」であったから、時には「子供を叱る父」となり、また叱った後は「そこへ提げに出る母」をも兼ねなければならなかった。しかも「好き嫌いの多い子供等のために毎日の惣菜を考へることが日課のやうに」なるぐらい、母親としての役割をも果たしていた。

 父親と母親の両方の役目を兼ねるということは、「父性」と「母性」の両方を使い分けるということである。心理学者の河合隼雄によると 、母性原理には無条件かつ平等に我が子を「包み込む」機能がある一方で、母の保護下からの勝手な離脱を許さない面もある。これに対し、父性原理には我が子を能力や個性に応じて類別し「切断する」機能があり、建設的な面と破壊的な面を備えている。つまり、母性原理は平等主義、父性原理は能力主義とも換言できよう。


 つまり、「私」は子育てをする中で「子供の世界」に親しみ、子供達の「性質の違い」に気付くことで父性が育まれ、父母両役を担うことで母性が芽生え、子供達を善悪に二分することなく、子供同士の衝突を避けて平等に彼等の性質を延ばそうと苦心する。このように、男手一つで子育てをしていく内に、父性原理の上に母性原理としての振舞いを身に着けた父親として「私」は描かれている。


三 時代背景

 「嵐」が書かれた時代において、父親とはどのような存在だったのか。当時は女性解放運動に伴って、夫のあるべき姿が論議され、次第に「子供の教育」や「親子関係」に世間の関心が集まっていた。近代日本における父性論は、明治期に言われた「近代的性別分業に立つ父性論」と、明治三〇年代末から昭和一〇年代にかけて散見された「良夫賢父論」、そして大正期から昭和十年代の「近代的性別分業を批判した父性論」の三つに大別される。 


 一つ目の「近代的性別分業に立つ父性論」は、「婦人の主たる仕事は家庭にあり、男子の主たる仕事は社会にある」という性別分業が当然という考えのもとで、「女親こそ親」としつつも、「多忙な父親も子どもと情愛深く親しむ機会を持つように努力するべきだ」という議論であった。

 二つ目の「良夫賢夫論」は「子育ては良い国民を育てるもの、ひいては国家貢献のためである」という位置づけで、「母親だけに限らず父親も「良夫賢夫」となれるよう父親教育をするべきだ」という議論であった。「近代的性別分業に立つ父性論」と違う点は、家庭を大事にするのを女々しいとする従来のジェンダー規範を批判し、男性規範に揺らぎをもたらしたところである。

 最後の「近代的性別分業批判の父性論」は、子育てを「父親自身の自己実現」とし、「父親も母親同様に家事や育児に従事するべき」であるし、また「女性は男性と同等に就労できるよう促進するべきである」という議論であった。

 「嵐」が発表された大正十五年には、「近代的性別分業批判の父性論」が盛んであった。国が国家貢献である子育てを支援すべきだとする平塚らいてうに対し、経済的に自立した上で子育てに取り組まねばならないと与謝野晶子は主張した。(経済的にはむしろ与謝野晶子の方が苦しい立場に置かれていたが。)
 「私」には妻がいないため、妻の就労の有無に関してはどの論にも当てはまらないが、子育てを「国家貢献」と捉えているか、「父親自身の自己実現」と捉えているかで判断すると、初めは責任感から子供達を引き取ったが、次第に自分自身の考え方が変化し、子供を通して新たな世界の見方や振舞いを獲得し、自身の創作活動に反映させたところを踏まえると、後者に当てはまるように思われる。


 また、これまで「嵐」の作中の分析を行ってきたが、「嵐」がなぜそれほど多く読まれたかを考える上で、当時始まった特殊な出版形態である「圓本(円本)」について言及する必要がある。
 円本は、大正末から昭和初期に企画された、予約販売、毎月刊行を謳う、一冊一円の全集や叢書を総称するものである。 経営危機を打破するべく、関東大震災で焼失した書籍を、知識人階級だけでなく大衆の手元にも届けるという大義を掲げ、改造社は大正十五年一二月から円本を発行した。この円本販売によって、読者層が大幅に拡大し、以前は二三万にすぎなかつた文芸書の読者が十倍二十倍に激増したと言われている。   
 「嵐」を出版した当時を振り返った藤村が「意外な反響を世間に呼び起こしたのもまたこの作であつたが、一つには文學上の作品に注意する男女の讀者の範圍が日に月に擴大されて行つた證據とも言つて見ることが出来よう。」 と述懐したことからも、円本ブームによって読者層が大幅に拡大したことが、「嵐」の反響の大きさの一因であると言えるだろう。


 四 作者の世間でのイメージ

 藤村は自身の子供達を題材にした作品を、「嵐」を出版する以前にも出していた。その最初の作品は、大正六年四月二十日に実業之日本社から出版された『幼きものに』である。これは遠い外国で働く藤村が、日本の叔父に預けた太郎、次郎、三郎、末子の四人の子供たちに、三年の間、外国で見たり聞いたりした動物のお話や、様々な国の暮らす人々の話、日本では見ることの無い景色の話など、多岐にわたる話を贈りたいと思って、小さな本にまとめたものである。それらのお話を、三年ぶりに再会した藤村が、愛する子供たちに、話して聞かせるという体裁をとっている。

 続いて、大正九年十二月一日に実業之日本社から『ふるさと』が出版された。藤村が「幼きものに」を息子たちに贈ってから三年後のこと、十三歳になった三郎は、長い間信州木曽のおじさんの家に養われており、兄や妹たちの住む父の家に時折手紙を書いては、その様子を知らせていた。藤村が育った故郷でもある信州木曽での出来事は、ぜひとも子供たちに話し聞かせてやりたいと思っていたため、藤村は子供たちに向けて、「幼きものに」と同じように、この「ふるさと」を書き記した。

 そして、大正十三年の一月五日に新潮社から出版された『をさなものがたり』も、成長していく藤村の子供達やその世代の少年少女に向けて、藤村の若い頃の思い出話を、お伽話風に整えて書いたものである。

 最後に、大正十五年二月五日に研究者から出版した『藤村読本』は、年少向けの寓話や、年長向けの小難しい話など成長した四人の子供達全員が楽しめるように多岐にわたるお話をまとめたものである。

 このように、フランスから帰国した藤村は、立て続けに子供向けの童話を製作した。『幼きものに』から『藤村読本』にかけて書いた子供向けの作品では全て、子供達の名前が「太郎」「次郎」「三郎」「末子」と一貫しており、母親は亡くなり父である藤村が一人で育てていることも共通理解となっている。また、『藤村読本』の第二章「古い時計」は、『嵐』の冒頭で子供達が背丈を記している「古い時計」と同一のものを指している。『藤村読本』と『嵐』の出版時期は半年も離れておらず、『藤村読本』が記憶に新しい読者は、『嵐』を読み始めた時点で、これまで藤村が童話シリーズで繰り返してきた家族構成や背景が思い起こされたことだろう。当時「藤村の童話は教育界で推薦されて」おり、「藤村読本」が全国の中等学校小学校の副読本に採用されていたことを踏まえると、全国の児童が藤村一家の事情を知っており、藤村=「男手一つで子育てをする良き父」というイメージが備わっていたとしても想像に難くない。 「嵐」はこのような作者の書いた、父と子の小説だったのである。


 五 まとめ

 本稿では、当時の人々の目線に立ち、なぜ「嵐」が一般読者からも評価が高かったのかを「私」の父親像・時代背景・作者藤村のイメージという観点から考察した。大正末期から昭和初期にかけて流行した「円本ブーム」と「嵐」は密接な関係にある。それまで文学作品に親しくなかった一般庶民も、大老家島崎藤村の小説を手に取り、「男手一つで子供を育てる父」という藤村に対する固定観念と共に、作者の意図通りに「嵐」に描かれた「父親像」を解釈した。その結果、「父と子の在り方」を探る世間において、「嵐」の「私」、ひいては藤村と子供達の動向は、世間の関心事への一つの模範的な解答として読まれ、広く歓迎されたのである。つまり、「嵐」は藤村の克明な生活記録や心境小説というよりもむしろ、教科書的な家族小説と言えるのではないだろうか。


【参考文献】
・南部修太郎「九月の創作(一)」(『読売新聞』読売新聞社、一九二六年九月五日)
・「編輯後記」(『改造』第八巻十一号、改造社、一九二六年十月)
・島崎藤村「付記」(『春待つ宿―藤村文庫八―』新潮社、一九三八年)
・瀬沼茂樹『近代文学講座第六巻 島崎藤村』角川書店、一九五八年
・平野謙『島崎藤村―人と文学』新潮文庫、一九六〇年
・河合隼雄『母性社会日本の病理』中央公論社、一九七六年
・年譜『日本近代文学大系 第一四巻 島崎藤村集Ⅱ』角川書店、一九七〇年
・海妻径子『近代日本の父性論とジェンダー・ポリティクス』作品社、二〇〇四年
・永渕朋枝「藤村「嵐」の評判―所謂「心境小説」の読まれ方」(『叙説』奈良女子大学國語國文学研究室、二〇〇六年)
・長沼 光彦「昭和初期の書物装丁を支えた美意識 ―円本・限定 本・商業美術―」(『京都ノートルダム女子大学研究紀要』京都ノートルダム女子大学、二〇一九年)

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