Daddy Yankee“Que Tire Pa' 'Lante”から「レゲトン」の音楽を遡ってみる

Daddy Yankeeの”Que Tire Pa' 'Lante”が10月18日にリリースされました。

Daddy Yankee - Que Tire Pa' 'Lante

昨今、ラテン系アーティストの人気が高まっていると言われています。

この代表的な一人がDaddy Yankeeではないでしょうか。

2005年には”Gasolina”がヒット。日本でも横浜ベイスターズで活躍したクルーンが入場曲として使用していたことで話題になりました。

Daddy Yankee – Gasolina

その後も継続的に活動を続け、2017年にはLuis Fonsiに参加した”Despacito”が驚異的な大ヒット。

スペイン語の音楽としては1996年のLos Del Rio “La Macarena.”以来のBillboard1位に。

現時点でYouTubeの再生回数は60億回を超える規格外の規模です。

Luis Fonsi - Despacito ft. Daddy Yankee

彼のサウンド、よく聴くと特徴的なフレーズがあると思ったのです。

それは「ズーンチャズンチャ」というビート音です。

今年リリースされたDaddy Yankee & Snowの”Con Clalma”も見てみました。

Daddy Yankee & Snow - Con Calma

やっぱりこの「ズーンチャズンチャ」というフレーズが聴こえます。

この音、とても気になってしまったので、このルーツを追いかけていきたいと思います。


Daddy Yankeeは、プエルトリコ出身のアーティストです。

プエルトリコという国にはあまり馴染みがないがない方が多いと思います。

中南米の国で現在はアメリカの自治の元にあるそうですが、歴史的にはスペインが支配していた過去があるため、主言語は英語ではなくスペイン語のようです。

そんなプエルトリコ出身のDaddy Yankee 。2005年に”Gasolina”で世界的に脚光を浴びましたが、この時こういった音楽のジャンルは「レゲトン」と呼ばれました。

「レゲトン」を語る上で重要な曲があります。

Shabba Ranksの”Dem Bow”です。

Shabba Ranks - Dem Bow

“Dem Bow”は、1990年にリリースされた曲で、この曲のリズムこそが「レゲトン」のリズムを形作っているものと言われているそうです。

サウンドはジャマイカ出身のダンスホールレゲエプロデューサー、Bobby Digitalによるものとのこと。

ではこの”Dem Bow”が登場するまでにどんなことが起こっているのか調べてみました。


プエルトリコの伝統的な音楽には「サルサ」と呼ばれるものがあるそうです。

専門的には、2-3(ツースリー)、3-2(スリーツー)という2つのリズムを基礎にして構成される音楽だそうですが、要するに「タンタン・タタタ」か「タタタ・タンタン」というパターンで構成されるということなのだと思います。

このサルサと「スパニッシュレゲエ」というジャンルを組み合わせたのが「レゲトン」という音楽とのこと。

レゲトンを代表するアーティストの1人に、N.O.R.Eというラッパーがいます。

N.O.R.Eは、アメリカのニューヨーク出身です。母がアフリカンアメリカン・父がプエルトリカンでした。

90年代後半からヒップホップチームで活動を始め、末頃にはNOREAGAという名前でソロの活動をスタート。見事にデビューします。

3枚目のソロアルバムで「N.O.R.E.」と改名。アルバムはヒットします。

その後、彼の自身のルーツでもあったプエルトリコの要素を取り入れます。

2004年には「Oye Mi Canto」が大ヒット。

これによって、「レゲトン」というジャンルが一気に世の中に広まっていったのでした。

N.O.R.E - Oye Mi Canto

では、スパニッシュレゲエとはなんなのか。

「スパニッシュレゲエ」というジャンルは文字通り、レゲエを「スペイン語で歌った音楽」と言えるはずです。

スパニッシュレゲエを読み解くためにはまず、「レゲエ」とは何かを知りたいです。

レゲエの特徴は2つです。

「スッチャスッチャ」という感じで裏でカッティングが入る。

もう1つは、ドラムなどのリズムを取る音が3拍目に入る。

代表例を聞いてみましょう。

レゲエのレジェントBob Marleyの”Get Up Stand Up”です。

Bob Marley - Get Up Stand Up

「スッチャスッチャ」という「チャ」というギターの音が聴こえますね。

そして、リズムをキープする低めの音が「・・トン・」も聴きとれるのではないでしょうか。

そんなレゲエをスペイン語で表現したスパニッシュレゲエは、1970年頃からパナマでラテンアメリカ人たちが始めた音楽だそうです。

1970年代中盤〜後半に地元のDJたちの間で広まっっていきました。

この頃はレゲエをスペイン語で歌う、というものだったのだと思います。

1980年代半ばにEl General、Nando Boom、El Maleante、Chicho Manといったミュージシャンがジャマイカのダンスホールビートを取り込んでいきました。

El General - muevelo muevelo

さらに、Aldo Ranks、El Renegado、Jam & Supposeというアーティストが活躍します。「Camion Lleno de Gun」がヒット。

Jam & Suppose Classics - Camion Lleno de Gun

(銃声をトラックに使ってしまうのは今となっては斬新です。)

いずれの曲も「ズーンチャズンチャ」とは聴こえないまでも、通ずるリズムがありそうな気がします。

しかし、そもそもレゲエはジャマイカをルーツにした音楽です。

なぜパナマにやってきたのか。それはパナマの開発にあります。

始まりは1840年代まで遡ります。

1848年頃、「ゴールドラッシュ」という現象がアメリカ・西海岸のカリフォルニア州で起こります。

カリフォルニアの金鉱で金がたくさん採掘され、価値が上がりました。

この金を求めて、東海岸やヨーロッパから人々が出稼ぎに出ていったそうです。

しかし、アメリカ中央のロッキー山脈を越えるのは日数もかかり、治安の問題もあったようで、パナマを経由するルートがよく使われるようになったそうです。そんな影響も受け、1855年にパナマ鉄道が開通します。

また、アメリカの協力を得て1914年にはパナマ運河も完成します。

このパナマ地峡鉄道、パナマ運河を開通する際に、ジャマイカから労働者が来ていました。

この時パナマに移住した労働者たちの子孫がパナマでレゲエ文化を広めていったそうです。パナマは元来、スペイン語が公用だったので、言語と音楽がブレンドされたのだろうと考えられます。

スパニッシュレゲエは、パナマの開発計画があったからこそできたとも言えるのかもしれません。

パナマでスパニッシュレゲエが鳴り始めた頃、プエルトリコではアメリカのヒップホップ文化が流入し、スペイン語ラップカルチャーが生まれていきました。

その中心にいたのは、Vico Cというアーティストです。

彼はニューヨークのブルックリンで生まれ、プエルトリコで育ちました。

1985年にはプエルトリコのDJ Negroに発見され、活躍していきます。

Vico C - Saborealo

音楽的には裏でカッティングするようなレゲエの要素は感じられず、アメリカっぽいヒップホップ要素に聞こえます。

スペイン語でのヒップホップを世界に伝えた存在になったため、「ラテンヒップホップの父」的な存在となっているようです。

Vico Cの活躍から数年、プエルトリコのクラブなどで醸造された文化は「レゲトン」として爆発することになります。

その代表格の一人がDaddy Yankeeでした。

この間に”Dem Bow”がリリースされていったことになります。

つまり、プエルトリコで鳴っていたスペイン語ヒップホップ的な音楽に、スパニッシュレゲエが重なっていったのではないかと考えられます。

”Dem Bow”のリズムをプエルトリコのクラブDJたちがフックアップして自分たちのものにしていったのではないでしょうか。

もう一つ、大事なファクターが挙げられます。

当時のプエルトリコでは、「The Noise」などをはじめとしたクラブが流行しました。混沌としたエネルギーに溢れていたのではないかと想像します。

後にはそこから、DJ、ラッパー、プロデューサーが排出されていくようなカルチャーの中心でした。

そしてその中で、DJが色々なアーティストと曲を作ってレコーディングし、ミックステープを作って売っていました。

代表的な一人が、DJ Playroです。彼のミックステープで1991年頃からDaddy Yankeeとコラボしています。

この頃には「ズーンチャズンチャ」という音が確立されていたようです。

つまり、Daddy Yankeeの音楽はサルサをはじめとしたプエルトリコやラテンの伝統的な音楽的素地に、アメリカから飛び込んできたヒップホップの歌とビートが加わり、そしてジャマイカからパナマを経由して育ったスパニッシュレゲエのテクニックが重なったことで、いくつもの国をまたぐ音楽となったのではないでしょうか。

この音楽の歴史こそが、世界中でDaddy Yankeeが愛される一つの理由のなのかもしれません。

そして忘れてはいけないのは、”Dem Bow”のBobby Digitalに代表されるようにサウンドクリエイターが新しい音楽を開発したこと、そしてプエルトリコにそういった音楽で遊ぶDJがいて若者が集まるクラブカルチャーがあったこと、複合的な重なりの結果、今の音楽ができあがっているのかもしれません。

音楽って本当におもしろいなぁと思います。


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